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青眼展墓録

太田垣蓮月(六)

皇女和宮の降嫁
文久元年(一八六一)十月二十日、京都では壮麗な大行列が市中を通り抜け、大津方面へと消えていった。この一大行列の主人公こそ、孝明天皇の妹君、皇女和宮(一八四六〜七七)である。幕末の激動する朝幕関係の改善のため、究極の公武合体策として白羽の矢を立てられた彼女は、やむなく第十四代将軍徳川家茂のもとへ嫁ぐことになった。世に言う和宮降嫁である。

惜しまじな君と民とのためならば
身は武蔵野の露と消ゆとも

彼女は、このときの覚悟をこの歌にたくしたと伝えられている。さて、江戸へと向かって出発した一行は、逢坂の関を越えると早速、大津の宿で旅装を解いた。いまだ準備の整わぬこともあったのであろう次の日も大津に泊まり、二十二日に出発している。大津での様子は、本陣の史料などが散逸しており詳らかにしないが、休息をとった草津宿(滋賀県草津市)では、和宮に饗された昼食の献立まで伝存している。なかでも「三井寺豆腐」なる一品がメニューに加わっていたことも記録されており、たいへん興味深いものがある。

その後、一行は、草津で東海道から離れ、中仙道へと進み、同年十一月十四日、無事に板橋の駅に到着している。和宮は、下向の道中にあって、住み慣れた京を離れ、慣れ親しんだ人とも別れて、ひとり江戸へと向かう不安な心境を歌に詠んでいる。

住み慣れし都路出でてけふいく日いそぐもつらき東路のたび遠ざかる都としればたびごろも一夜のやどりも立うかりけり落ちて行く身を知りながら紅葉ばの人なつかしくこがれこそすれ

壮観を呈した一行の通過は、道中警備など総勢一万人近い行列だっただけに、当時の中仙道沿いの宿場町の人々にとって、まさに歴史始まって以来のことと感じられたであろう。岐阜大垣の赤坂宿では、和宮一行を迎えるため「お嫁入り普請」と称し、すべての通りに面した家を二階建てに改造する普請が行われた。この「和宮普請」の名残は、今も街道筋の随所に留められている。そればかりか、意を決して嫁いだ徳川幕府の滅亡、そして自らの突然の死と、その短くも悲劇的な生涯は、現在でも多くの人々の関心を集め、かつての宿場町では和宮を記念する行事なども行われている。

将軍家茂との婚儀は、翌文久二年二月に挙行される。幸いにも同い歳の家茂は、誠実な愛情をもって和宮に接し、夫婦仲は睦まじいものであったという。しかし、時勢は止まることなく尊攘倒幕運動は激化し、家茂は文久三年(一八六三)、二度にわたり上洛してと孝明天皇と公武一和の推進しなければならなかった。慶応元年(一八六五)には長州征討のため江戸を発ち、そのまま年を越して、大阪在陣中に発病、翌慶応二年七月に死去してしまう。享年二十一歳であった。家茂は、江戸を発つ時に和宮に土産は何がよいかと尋ね、和宮は西陣織の衣を所望したという。しかし、西陣の織物とともに和宮のもとに帰ってきたのは、ほかならぬ夫家茂の遺骸であった。

このとき和宮は、

空蝉の唐織ごろもなにかせむ
綾も錦も君ありてこそ

と詠み、落飾を決意、同年十二月、薙髪して静寛院を称することになる。

さて、将軍職は、一橋慶喜に継承され、時局は一挙に開国和親に向かい、ここに和宮降嫁の所期の意図は水泡に帰することになる。慶応三年(一八六七)十二月九日、王政復古。翌慶応四年(一八六八)正月の鳥羽伏見の戦は幕府の敗北に終り、朝廷は、和宮のかつての許婚者、有栖川宮熾仁親王を大総督とする徳川氏追討令を発する。和宮は、夫家である徳川家の救助、官軍と幕軍の戦闘回避に懸命の努力を重ね、江戸無血開城を迎えることになる。

維新後の明治十年八月、東京にいた和宮は、伊藤博文公の勧めもあって脚気治療のため箱根塔ノ沢に赴いた。そこで九月二日、突如おそった衝心の発作により、同地の旅館環翠楼で薨去してしまう。まだ三十二歳の若さであった。遺骸は、芝の増上寺に眠る夫、家茂の隣に葬られた。

野村望東尼の訪問
この年、和宮降嫁の盛儀を一目見ようと一人の女性が九州福岡から上京してきた。歌人として知られた野村望東尼(一八〇六〜六七)である。彼女は、和宮一行を見送った後の十一月に蓮月にもとを訪れている。このとき蓮月は七十一歳。おそらく聖護院村に住んでいた頃と思われる。蓮月は、明治になると貞女の鑑、勤王の歌人として喧伝されるようになるが、こうした誤解は、当時の時勢もさることながら、望東尼との交際などが拡大されて流布したからであろう。いったいに蓮月には、意識して政治問題から身をひいたかのような観がある。幕末激動の京都に身を置いた蓮月が、当時、日本全体を揺るがすほどの政治問題に無関心、無理解であったとは考えられず、彼女の政治的な関心が希薄であったなどと即断はできないであろう。むしろ、彼女にとって最大の関心は、世の中が乱れることによって困窮する一般民衆の姿であった。また、前途有望な青年が、政治に踊らされるように命を粗末にしたり、刃に倒れ、あるいは幕吏に捕らえらることこそ、彼女には彼らの姿が分不相応にも見えたであろうし、またふがいないことであったのではないか。それが彼女が政治から距離をとった彼女なりの見識と解しておきたい。

一方、望東尼の方は、正真正銘、勤王の烈女と称してよい歌人である。福岡藩士の家に生まれ、二十四歳の時に結婚するも生まれた子供は皆早世してしまい、夫婦仲のよかった夫にも死に別れ、出家して望東尼と称し、平尾山荘に隠居し、学問、芸術に親しんだという。ここまでは蓮月の前半生の境涯と似ているが、望東尼四十歳の時には、すでに勤王の志士から母のように慕われ、この山荘には多くの志士が出入りし、特に高杉晋作とは深い親交をもつことになる

元治元年、長州を追われた高杉晋作は、望東尼の平尾山荘に匿われ、後にこれを福岡藩にとがめられ、望東尼は、六十歳にして玄海灘の孤島姫島に流罪となる。しかし、流刑の身となった望東尼を心配し、その境遇から救出したのは、高杉晋作であった。流刑地から首尾よく脱出した望東尼は、慶応二年、無事に下関に身を落ち着けることができた。二人の関係は高杉の死まで続き、死の床で高杉が「おもしろきこともなき世をおもしろく」と詠じて力尽きた時、「すみなすものはこころなりけり」と下の句をつけた有名な話が伝わっている。

さて、蓮月を訪れた望東尼は、このときの感想を「はや齢七十五(七十一の誤りか)なるよしながら、いまだ五十ばかりとも見え侍る、いとうつくしき尼ぞかし、昔はいかに花さきし人ならむと思ひやられ侍る」と門弟に書き送っている。しかし、政治向きの話などは何ら記しておらず、おそらく陰徳を旨とした蓮月との温度差を感じ取ったのではなかろうか。

望東尼は、高杉の死後、長州の軍港三田尻に行き、防府天満宮に七日間こもり断食して官軍の勝利を祈念する。しかし、これがもとで体調をくずし病床に臥すようになり、大政奉還、王政復古の知らせを病床で聞きつつ、慶応三年(一八六七)十一月六日、その生涯をこの地で閉じた。享年六十二歳。

辞世の句に曰く、

冬籠こらへ堪えて一時に
花咲きみてる春は来るらし


橘曙覧と蓮月
望東尼の上洛と相前後して、文久元年の九月には、越前福井の歌人で国学者の橘曙覧(一八一二〜六八)が、息子の今滋をともなって、伊勢参宮の帰途、やはり蓮月のもとを訪れている。彼とは以前より文通があり、蓮月も自作の急須を贈るほど、親近感を抱いていたことが知られる。

彼は、福井城下の商家に生まれ、当時としては異色な万葉調の生活歌を詠んだことで知られ、弘化三年(一八四六)に家業を異母弟に譲り隠棲。歌作と『万葉集』の研究に没頭した。その才能を惜しんだ福井藩主の松平春嶽慶永(一八二八〜九〇)は、再三にわたって仕官を要請するが、その都度辞退している。あくまで市井の中でひっそりと自然を愛し、貧しいながらも家族を慈しみ、日常生活に密着した歌を詠み、孤高の生涯を生きる道を選んだのである。後に、正岡子規は、「曙覧こそ実朝以後のただ一人の歌人である」と絶賛するが、今日では、ほとんどその業績は忘れ去られようとしている。

ところが、平成六年(一九九四)、天皇、皇后両陛下がはじめてアメリカを訪問された際、クリントン大統領がその歓迎レセプションで、

たのしみは朝おきいでて昨日まで
なかりし花の咲けるみるとき

という曙覧の歌をスピーチで引用したことから注目された。このネタ元は、ドナルド・キーン氏の著述であったとのことあるで、なるほど同氏の全十八巻に及ぶ労作『日本文学の歴史』の「徳川後期の和歌」の項には、小沢蘆庵、香川景樹、良寛、大隈言道と共に、わずか五人の内の一人に選ばれている。

もとより彼もまた、勤王の歌人として取り上げられることが多いが、蓮月にとっても、やはりこうしたところに他の勤王歌人との相違を認めたのであろう。彼は、年号が明治に変わる直前の慶応四年(一八六八)八月、五十歳代半ばにして亡くなるが、この訃報を知った蓮月は、次の悼歌を詠んでいる。越路より四方に照らしし玉手匣あけみのうしの亡きぞ悲しき

同じ御国の御民ならずや
こうしてみると、蓮月は、勤王や攘夷といった政治思想からは距離をおき、幕末の京都を吹き荒れた政治の風を避け、政治に熱い人物から自由であろうとしていたことがうかがわれる。

従って、彼女が文久三年(一八六三)八月十八日の政変、いわゆる三条実美らの「七卿落ち」を見送ったという言い伝えは、とうてい信用できない。

また、蓮月の歌に次の二首がある。

うつ人もうたるる人も心せよ
同じ御国の御民ならずや
あだみかた勝つも負くるも哀なり
同じ御国の人と思へば

この二首の歌には、有名な伝説が伝わっている。戊辰戦争に際し、和宮のかつての許婚者、有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の京都発向に当たって、その先陣をつとめた薩長軍が、三条大橋にさしかかったとき、橋のたもとから蓮月が先の歌を書いた短冊を差し出し、これを受け取ったのが西郷隆盛であったという話である。その夜、大津に泊まった西郷は、この短冊を見ながら諸将と協議し、翌朝、大津を発つときには機鋒も鈍っていたという。さらにこの話には尾ひれがついて、江戸開城をめぐって行われた有名な西郷と勝海舟との会談の席にもこの短冊は登場し、山岡鉄太郎の耳にも届き、この短冊が江戸を死地から救うのに大いに役立ったというのである。この説話のごとき話は、村上素道の編んだ『蓮月尼全集』では、宮崎半兵衛翁なる人物の直談として採録されている。しかし、編者も「三条橋辺の直訴の事は、尼の性格として如何かと思うが、或いは人をして其話柄を作らしめた因由は慥かにあろう」と記されている通り、事実ではあり得ない。ただ、同書には、後年、同様趣旨の話が福地桜痴により脚本化され、歌舞伎座で上演されたということを伝えており、おそらく芝居などを通じて一般に広がっていったのであろう。現在も神光院の蓮月の茶所には、この場面を描いた額が掲げられている。もとより蓮月の本領は、もっと地に足のついた布施行であったであろう。          

蓮月尼のやさしさと信仰

蓮月の焼き物や短冊が、京名物のひとつとでもいえるほど有名になってくると、六十歳を越した蓮月には、お金が入るばかりで、出て行かないということになった。そこで、蓮月は、嘉永三年(1850)に畿内を襲った飢饉に際して、救済のため三十両を奉行所に喜捨したという。また、文久二年(一八六二)頃には、それまで橋のなかった鴨川丸太町に独力で資金を出して橋を架けたり、慶応二年(一八六六)頃に起こった飢饉では、粥施行所にお金を喜捨するだけでなく、神光院月心和尚、鳩居堂熊谷直孝らと救済に立ち上がっている。もとは呉山と称する画家であった月心には観音の仏画を一千枚描いてもらい、それに蓮月が賛を書き加え、このお札を鳩居堂で売ってもらい、売上金で餅をつかせて家々に配ったという。ときには様々な古着を買い込んできて、困っている人々に配ったこともたびたびであった。こうした自らの財を投げ出して、世のため人のためにおこなわれた布施行は、蓮月が亡くなるまで続けられたという。

杉本秀太郎氏によると、飢饉救済の粥施行は、石門心学を開いた石田梅岩(一六八五〜一七四四)が、元文の飢饉におこなって以来、心学者の継承してきたもので、「天明、天保、嘉永、慶応の飢饉に際しても、手嶋堵庵の明倫舎、五楽舎以下、京中の心学八舎は連合して各所に粥施行を長期にわたって引き受け」、多くの人々を餓死から救ってきた。この石門心学は、先の鳩居堂の熊谷直孝も同心であり、富岡家にしても鉄斎の曾祖父に当たる富岡以直が石田梅岩の塾に入り、後に手嶋堵庵とともに塾の指導経営に尽力して以来の深い関係であったという。こうした、ただ学問するだけでなく、何よりも心を磨くことを勧める石門心学の伝統は、蓮月をへて、富岡鉄斎へと確実に引き継がれていくことになる。

しかし、なによりも筆者の心を動かしたのは、「当時、山科の一寺に老牛を飼い殺しにする小屋があった。蓮月はそちらの道に行く人の序でがあると、かい葉桶に投げ入れてほしいといって、小餅をたくさん買ってもたせることがよくあった」という挿話である。

先に、蓮月が時代が巻き起こした尊皇攘夷や勤王といった政治思想に距離をとったと述べたが、仏教との関わりについても、前半生は浄土宗の知恩院、晩年は真言宗の神光院と、異なった宗派に深く帰依するのであるが、蓮月自身は、浄土や真言といった宗派の枠を超えて、目の前の困っている人々を先ず救うことに全力を注ぐことに自分を限定したように思われる。たしかに世の中を変えるのは政治かも知れないが、いったん政治の世界に足を踏み入れるや、とたんに足下をすくわれ泥沼から抜け出せなくなることを蓮月は避けたのではなかとうか。

しかし、そんなことよりも、人間だけでなく動物にまで真心をもって接することのできる心根をもった人こそ、真に信頼すべき人間であろう。この挿話は、蓮月の生き方と信仰の在処を指し示しているように思えてならないのである。

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