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青眼展墓録

太田垣蓮月(七)

頼山陽の山紫水明処
夏も盛りを迎えようとする七月末、京都上京に残る頼山陽の史跡・山紫水明処(水西荘)を訪れた。

頼山陽(一七八〇〜一八三二)は、江戸後期を代表する儒学者で、幕末の志士たちに大いにもてはやされた『日本外史』の著者としても知られている。また、書画のみならず詩人としても一べんせい流で、川中島の合戦を詠んだ「鞭声しゅくしゅく粛々夜河を渡る」(「不識庵の機山を撃つ図に題す」)などは、もっとも人の知るところであろう。

山陽は、安永九(一七八〇)年、父春水、母梅(ばいし)との間に大阪で生まれた。六歳のとき、父が広島藩から儒学者として招聘され、一家は広島に移ることになる。彼は生まれながら不羈奔放の性格で、その天才が厄いしたのか、二十一歳のときに脱藩を企て蟄居の身となり、鬱々とした生活を余儀なくされる。

転機が訪れたのは、三十歳のとき。父の親友で、福山近郊の神辺(広島県深安郡神辺町)に住する当代随一の詩人・菅茶山(一七四八〜一八二七年)のもとに都講(塾頭)として迎えられることになった。しかし、いざ神辺に赴いてはみたものの天下に名を挙げんとの志はやむことなく二年後の文化八年(一八一一)、菅茶山のもとを去り、京都へと向かった。

山陽は、洛中にあって度々転居を繰り返すが、文政六年(一八二三)、鴨川を西に望む三本木の地に邸宅・水西荘を求め、晩年を送ることになる。

そして、文政十一年(一八二八)には、山陽自らが水西荘内に書斎を建立した。これが今日に残る史跡・山紫水明処である。夏の日差しを浴びて、丸太町通の鴨川にかかる橋を渡って東へ一筋目、東三本木通を北へ上がると「山紫水明処」の標石がたっている。

いつもは閉ざされた表門をくぐり露地を奥へ進むと、中門につき当たる。そこからは庭の樹木越しに葛屋葺の建物が見える。すでに庭ではご婦人が水を打っておられた。来意を告げると快く迎えていただき、庭の飛び石伝いに建物の南側から部屋にあがらせていただいた。

ここが山紫水明処の主室、四畳半の間である。西側に浅い床があり、床脇は三段に分かれている。上段は天袋、中段が棚、下段は網代戸を建てた地窓である。上段の天袋には小田海僊の墨書画が残り、中段は出窓形式の棚で、外側に障子が入り、さらに雨戸代りの突き上げ戸がついている。案内のご婦人のご配慮で下段の地窓の網代戸をはずしていただいた。すると大きな空間が中庭に向かって開き、涼やかな風が通ってくる。

鴨川に面する東側は、栗材の手すりのついた縁から比叡山や東山の山並みが眺められる。こちらも中程にガラス(ギヤマン)をはめ込んだ襖障子を開けると、鴨川越しに東山からの風を呼び込むことができる。天井も葭を並べた寄棟の化粧屋根裏で、じつに開放的である。当時の煎茶を好んだ文人趣味にふさわしい草堂の風格があり、細部まで山陽の好みが息づいているかのようで、清々しい気分にさせられる。

江馬細香と頼山陽
まさに山紫水明の刻、鴨の流れに耳を澄まし、暮れなずむ東山を眺めながら一煎を喫すれば、その興趣はいかばかりであろう。この楽しみを求めて山陽のもとには多くの友人たち、文人画家の田能村竹田や当時鴨川を挟んで対岸に住んでいた漢詩人の梁川星巌、紅蘭夫妻などが集まり、ときには山陽を生涯慕い続けた女流詩人の江馬細香も岐阜大垣から訪れるなど、皆で歓談し、日も暮れてくると一献傾け、自作の詩文でも応酬したのであろう。

興が乗ってくると山陽は、琵琶を持ち出し平曲を聞かせようとする。すると友人たちは、一人二人と逃げるように席を立つ。山陽の琵琶は下手の横好きだった。残されたのは平気で琵琶を弾き続ける山陽と寄りそうように聞き入る江馬細香のみである。細香は、この思い出を漢詩に残した。

水西荘に事を書す
春窓雨を聞きて夜沈沈
自ら覚ゆ簷声客心を撩すを
微酔醒むる時猶未だ寝ねず
琵琶の曲裏更深に坐す

窓辺に春雨の音を聞きながら、夜は静かにふけてゆきます。軒の雨だれ(簷声)が私の旅の心をかき乱すのを感ぜずにはいられません。ほのかな酔はさめましたが、まだ眠りにはつかず、先生(山陽)がお弾きになる琵琶の曲に聞き入って、夜ふけに坐っています。

谷仙介監修、門玲子訳注
『江馬細香詩集「湘夢遺稿」』

江馬細香(一七八七〜一八六一)は、蘭学者で大垣藩の藩医を勤めた江馬蘭斎の長女として岐阜県大垣市に生まれた。彼女と山陽が運命の出会いをしたのは、文化十年(一八一三)十月、山陽が美濃遊歴の途中、大垣の江馬家を訪れたときのことである。ときに細香二十七歳。山陽は、ひと目で彼女をみそめ妻にと望んだが、父蘭斎に反対され、やむなく京都に戻り、梨影という近江の人を妻に迎えてしまう。以来、細香は、生涯独身を通し、多くの哀しみに耐えながら懸命に生きる。山陽を芸文の師、心の恋人として交際を続け、結ばれぬと知りながらも度々、京都に山陽を訪ね、多くの文人とも交わり、詩文の才能を開花させていった。この印象的な場面は、門玲子『江馬細香』や南條範夫『細香日記』などでもじつに美しく描かれている。

最初の出会いから二十年を経た天保元年(一八三〇)、細香は七回目の上洛を果たす。山陽五十一歳、細香は四十四歳になっていた。山陽は、この二年後に帰らぬ人となるが、不吉な予感でもあったのか、山陽も細香との別れをいつになく惜しみ、この部屋での二人の語らいを詠う。

雨窓に細香と別を話す
離堂の短燭且く歓を留む
帰路の新泥当に乾くを待つべし
岸を隔てて峰巒雲纔に斂まり
隣楼の糸肉夜将に闌ならんとす
今春閏有り客猶お滞れども
宿雨情無く花已に残せり
此より濃州に去くは遠き道に非ざるも
老来転た覚ゆ数々逢うことの難きを

この「離堂」はもとより山紫水明処。「隣楼の糸肉」の「糸」は弦楽器、「肉」は人の歌う声。当時この三本木は花街であったことから、隣の妓楼からもれてくる三味線や歌声は、たけなわを迎え夜も深まっていく。連日の無情の雨に花はもはや散り果てようとしている。細香の故郷、美濃大垣へは遠い道ではないが、やはり老いの迫る身、度々逢うことも難しくなってきたと。

数日後、山陽は大垣へ帰る細香を山中越えで琵琶湖畔の唐崎の松まで見送っている。これが、二人の最後の別れとなったのである。

新三本木遊里桂小五郎と幾松
頼山陽も「隣を成して接するを嫌う笙歌の市」と詠んだ通り、山紫水明処のある東三本木通りは、かつて新三本木遊里と呼ばれ、周辺には茶屋や妓楼が建ち並んでいた。もっとも、先の詩の「接するを嫌う」は「接するを喜ぶ」の誤りではないかと、友人たちからからかわれ、山陽も閉口したという。

ところで、三本木遊里といえば、吉田屋の幾松と桂小五郎(後の木戸孝充)のロマンスであろう。幕末の京都は、新撰組や勤王の志士たちの巷となった。血気盛んな若者が狭い盆地に集まったのである。島原、祇園といった遊里は未曾有の活況を呈した。なかには勤王芸者といった女性まで現れ、志士たちと芸妓たちとの間には、多くの恋が生まれては消えていった。その代表が、桂小五郎と幾松である。新撰組に追われた小五郎を幾松が度々救ったという逸話などはよく知られている。維新後、幾松は晴れて正式な木戸夫人となり、名も松子と改めた。明治十年に夫が病死すると、松子は木屋町の別邸(現在の幾松旅館)に移り、剃髪して翠香院と称した。明治十九年、四十四歳で没し、京都霊山の夫の墓側に埋葬された。

幾松の吉田屋は、料亭清輝楼と名を改め営業を続けていたが、明治三十三年(一九〇〇)、立命館大学の前身、京都法政学校の仮校舎となり、新校舎に移転するまで約一年間ここで講義が行われた。現在、跡地には「立命館草創の地」の記念碑がたつ。清輝楼は、その後も大和屋旅館として存続していたが、平成八年(一九九七)、その歴史に終止符を打つことになった。

三本木と蓮月の生い立ち
ともあれ蓮月は、こうした場所で生まれた。蓮月の生い立ちについては、『大田垣蓮月』の著者・杉本秀太郎氏の所説に従わしていただく。それによると、蓮月の父親は、伊賀上野城代家老職を勤めた藤堂新七郎良聖(よしきよ)という人物である。彼は藤堂高虎の父の弟良政を祖とする藤堂新七郎家の六代目に当り、明和四年(一七六七)に生まれ、寛政十年(一七九八)に三十一歳で病没している。蓮月が生まれたときは、二十四歳ということになる。

生母については、一般には、妓楼の女性とされているが、三本木遊里内で出産したからといって、必ずしもそうとは限らない。この女性は出産後すぐに丹波亀山藩の何某に嫁いでいるが、妓楼の女性が武士に嫁ぐとは普通では考えにくいので、一般の家の女性であったかもしれない。いずれにせよ身ごもった母を、三本木の遊里に身をひそめさせ、ひそかに出産させ、その後の身のふり方まで世話し、同時に生まれてくる赤ん坊には養父を見つけるなど、名家藤堂家の意向を受けて万事面倒をみる人物がいたのであろう。蓮月も八、九歳のときに母が嫁いだという亀山城に女中奉公に出さていることからも、この人物は、藤堂藩と丹波亀山藩(当時の藩主は形原松平家の信直)双方に話を通すことができる人物であったと思われる。

蓮月は、かくして最初の夫・望古と結婚するまでの十年近くを丹波亀山の地で過ごすことになるが、この亀山は、現在の京都府亀岡市のことである。これは明治になって伊勢亀山と混同されやすいとのことで改称されたのである。当時の亀山は、山陰道の宿場町として栄え、石門心学の祖・石田梅岩や円山応挙などの人材を輩出している。

さらに、生後すぐの蓮月を引き取り養父となった大田垣光古が、知恩院譜代という世襲身分である門跡の坊官に取り立てられいることからも、亀山藩同様、藤堂家の意向は知恩院にも働いている。もともと大田垣光古は、藤堂良聖の囲碁の相手などをする相識の仲であったという。これは天明の大火で焼失した藤堂家の藩邸再建のために良聖が上洛し、その宿所に知恩院の塔頭が充てられ、おりしも知恩院に勤仕していた光古と知り合ったのであろうと杉本氏が推測される通りであろう。

水西荘のその後と知恩院前袋町
一人の人物について調べていくと、その周りに様々な人物が行き交い、縁が縁を生むとでもいうのか、その輪が広がりつつ、どんな絵柄が織り上がるのか予想もできない楽しい経験をすることがある。蓮月の周囲だけでも富岡鉄斎をはじめ小澤蘆庵、上田秋成、頼山陽・三樹三郎父子など、三本木や知恩院界隈をめぐって不思議な交差をみせる。これは京都の土地柄といってしまえばそれまでであるが、文化というものを考えるとき、文化都市といった今日の浅薄な言葉では表現できない、連綿と続く京都の奥深さには、やはり驚かされるものがる。

さて、頼山陽が天保三年(一八三二)に亡くなると、支峰十歳、三樹三郎八歳、お陽二歳の三人の子供を抱えた妻の梨影は、水西荘を福井藩の医者安藤精軒に譲り、富小路へと転居する。その後、京都の頼家を継いだ支峰は、東山知恩院の新門前通東大路東入る松原町という場所に京都頼家の本宅を構える。以後、三代龍三(庫山)、四代久一郎を経て、現在の当主は頼新氏である。明治四十年(一九〇七)生まれの新氏は、五代目当主として財団法人・頼山陽旧跡保存会の理事長を勤められ、山陽の遺蹟を守り継いでおられる。この度の山紫水明処の拝観も同氏にお願いしたものである。

安藤家の所有になった水西荘であるが、こちらは明治五年(一八七二)十月、富岡鉄斎が住むことになる。蓮月もまだ健在の頃で、当時、鉄斎は三十七歳、この年の三月には佐々木禎三の三女ハルと結婚し、新婚生活を水西荘で送ることになる。

若い頃に鉄斎は、頼山陽の子・三樹三郎(一八二五〜五九)と親しく交際していた。しかし、三樹三郎は安政の大獄で処刑されてしまう。当時、蓮月は、わが子のようにかわいがっていた鉄斎の身を心配し、京都から離れるよう長崎留学を勧めたほどであった。

時代が変わり、かつて山陽が住み、三樹三郎が生まれ育った水西荘に住むことになった鉄斎にしてみれば、その感慨は複雑なものがあったであろう。翌年には長男の謙蔵もここで生まれている。蓮月にしてみれば、三本木は自分が生まれ、その六十年後の嘉永二年(一八四九)には、同地にあった六人部是香の家塾神習舎に和歌を学ぶため通ったこともあった。そんな思い出深い地に住むことになった鉄斎に子供が生まれたのである。必ずや蓮月は、しげしげと足を運び、山紫水明処の部屋に座り、孫をあやすように鉄斎の幼子を抱きながら鴨川や東山の暮れなずむ風景を眺めたことであろう。

その後、水西荘は、明治二十三年(一八九〇)に頼家三代庫山によって安藤家から買い戻され、現在に至っている。

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