富岡鉄斎のこと
蓮月が、富岡猷輔こと後の鉄斎を預かることになったのも聖護院村への引越しが機縁であった。
富岡の家は、代々、三条衣棚で十一屋伝兵衛と称して曹洞宗御用達の法衣商を営む老舗であった。当時の当主は富岡維叙(これのぶ)。猷輔は、その次男として天保七年(一八三六)に生まれている。彼には五つ年上に先妻の子敬憲(たかのり)がおり、二人兄弟であった。
父の維叙という人は、もともと文人肌で、青表紙とあだ名されるほど本ばかり読んでいる篤行の人であったが、その分、商売には不向きで、ことに他人の保証人となり連帯責任をかぶり家運が傾きかけると、聖護院村に別宅を構え、そこに引きこもってしまう。
家業の方は、母の絹と異母兄の敬憲が何とか支えるものの、それも明治十四年に敬憲が亡くなると代々続いた法衣商十一屋は断絶してしまう。
猷輔は、父に似て学問好きの少年であったが、幼い頃に耳を悪くし聴覚障害があったため両親は、商人ではなく、いよいよ学問で身を立たせるべく、師を選び、読み書きはもとより漢学や国学を学ばせている。
猷輔少年と蓮月の交わりが、いつ頃から始まったかは分からないが、蓮月が偶然にも聖護院村の富岡家の隣に引越してきたことから始まったことは間違いない。すくなくとも嘉永三年(一八五〇)頃からというから蓮月六十歳、鉄斎十五歳の頃には、鉄斎は蓮月から孫のように可愛がられ、侍童として蓮月の身辺近くに付き従い、身辺の世話などをしながら学問に励んだという。
蓮月も猷輔少年の学問のために出来るだけの尽力を惜しまず、また、安政の大獄で猷輔が傾倒していた梅田雲浜などが投獄されたときには大いに心配し、無用の難を逃れさすためにも長崎に留学することを助言した。これに従った猷輔は、文久元年(一八六一)長崎に赴くが、それはそれで手許を離れるひな鳥を親鳥が心配するように「長崎遊学の首途に」と歌を贈っている。
もろこしの月の桂の一枝を
折りてもかへれ我家づとに
翌年に京都に戻った猷輔は、聖護院村の蓮月の旧居に私塾を開き、この頃から生活の資を得るために絵を描きはじめることになる。
北白川・心性寺に寄寓
蓮月が北白川の心性寺に寄寓することになったのは、安政三年(一八五六)春、六十六歳のときであった。この引越しには、すでに二十一歳になっていた富岡猷輔も付き添っている。
この寺は、雲居山心性寺と称し、比叡山から大津へと向かう山中越え(志賀山越え)の京都側の登り口に当たり、現在は「日本バプテスト病院」(北白川山の元町)の敷地になっている。
もと日蓮宗であったが、元禄期には退転し、宝暦九年(一七五九)に曹洞宗の僧により中興された。当時の住職は原担山(一八一九〜九二)で、曹洞宗の御用達であった富岡家とは昵懇だったことから猷輔の父維叙が仲介の労をとったのである。
この担山という人は、なかなかユニークな人物で、初め昌平黌に学び、併せて解剖学などの医学も修め、出家後は、独自の心身論や実証的仏教研究の方法論を唱え仏教の近代化をめざした。安政二年(一八五五)には孝明天皇の命により越前永平寺住職となり、明治以後は東京帝国大学の講師、曹洞宗大学林総監をつとめた。
さて、蓮月が、聖護院村から北白川の心性寺に引越しを決めた理由のひとつは、すでにこの頃になると蓮月焼が有名になり、注文に追われ、人に煩わされることなく人里離れた山寺にこもり仕事に専念できる環境を求めてのことであったと思われる。猷輔も蓮月と寝食を共にし、焼物に用いる岡崎土を寺まで運び、また仕上がった作品を粟田の窯元で焼いてもらうために持って行くのが主な仕事であったという。
しかし、こうした実際的な理由だけでなく、蓮月をして心性寺に惹きつけたのは、そこが彼女が敬慕する歌人・小澤蘆庵(一七二三〜一八〇一)の埋葬の地であったからであろう。
歌の師・小澤蘆庵
蓮月の和歌の師匠といえば、先ずは香川景樹と六人部是香が挙げられる。
香川景樹は、岡崎村に住んでおり蓮月の家とも近所だったことから、その家塾東塢亭に通い指導を受けたことは既に述べたところである。
また、六人部是香(一八〇八〜六三)に蓮月が入門するのは嘉永二年(一八四九)のことであった。ときに是香五十二歳、蓮月六十歳。是香は、平田篤胤門の関西の重鎮で、晩年に彼が開いた家塾神習舎は、蓮月が生まれた三本木にあった。「蓮月は岡崎、聖護院から鴨川の浅瀬に渡した板を踏んで、六十年のむかし、自分が呱々のうぶ声をあげた三本木に、是香大人を訪ねていったのであろう」と杉本秀太郎氏が記された通りである。
しかし、この二人以上に若いときから蓮月の歌に決定的な影響を及ぼしたのは、「ただこと歌」を提唱した小澤蘆庵に他ならない。彼は享和元年(一八〇一)、蓮月がまだ十一歳のときに亡くなっているが、彼女は生涯を通じて熱心に蘆庵に私淑した。
心性寺に移る以前、嘉永四年(一八五一)には、天台の妙法院門跡に所蔵されていた蘆庵の『六帖詠草』稿本を借覧することもあって東山七条の大仏方広寺に寄寓している。この便を計ったのが、妙法院宮教仁法親王(一八一九〜五二)の侍読(じとう)をつとめていた天台僧の羅渓慈本(一七九五〜一八六九)である。彼は、有名な『天台霞標』を完成させた学僧で、詩文に優れ、能書家でも知られていた。
また、彼は原担山に天台教学を教え、安政六年(一八五九)には富岡猷輔にも詩文を指導するという関係でもあった。このあたりの事情を物語るものは、蓮月が残した「大仏のほとりに夏をむすびける折」という一文、あるいは書簡(『蓮月全集』中巻所収消息篇二二、村上忠順宛)にうかがうことができる。
小澤ぬしの書は、れい(例)の六帖詠草五十巻、半紙とぢ五十枚ばかり、ひしと書つめ、その此(ころ)の伴ぬし、ちょう月(澄月)大人、秋成(上田秋成)、ゆれん(涌蓮)、ちかげ(加藤千蔭)、春海(村田春海)、かたがたの歌くわい(会)も侍り、外にざいう(座右)の記二十巻、これはとに虫ばみ候て、うらうち(裏打ち)もつづき侍らでくちおし、歌のまき五十巻は、うらうち(裏打ち)もでき(出来)さもらひて、ことよろしうなりぬ
ここに妙法院門跡で開催された歌会の参加者として名前の挙がる澄月(一七一四〜九八)は、備中出身の浄土宗の僧で、安永二年(一七七三)頃には岡崎村の垂雲軒に隠棲していた。彼は、蘆庵や『近世畸人伝』の著者・伴蒿蹊(一七三三〜一八〇六)、大愚と号した天台僧の慈延(一七四八〜一八〇五)と共に「平安和歌四天王」に数えられた歌人である。涌蓮は、伊勢出身の真宗高田派の僧・慧亮の号で、蘆庵と同じく冷泉為村門の歌人。嵯峨に隠棲し、嵯峨居士ともいう。
また、加藤千蔭(一七三五〜一八〇八)と村田春海(一七四六〜一八一一)は、ともに賀茂真淵門の著名な国学者で、江戸派の雄として併称された。京都に来たときに立ち寄ったのであろうが、すでに当時、妙法院真仁親王(一七六八〜一八〇五)のもとには、京都はもとより江戸や地方から出て来た文人たちが集まる京都の文化の中心になっていたことがうかがわれる。
かくして蓮月は、蘆庵の『六帖詠草』や当時、妙法院門跡において蘆庵を中心に催された歌会の集い、いわば文化サロンの雰囲気を看取し、その余芳にふれたことにより、蘆庵が眠る心性寺に住むことに大いに心をかき立てられたのであろう。
彼女の代表作として知られる次の歌などは、蘆庵の歌風を師とし、静寂な境涯に身を置いた蓮月の気持ちを素直に表現した名作であるが、歌の舞台としては、山里離れた北白川の心性寺こそふさわしいように思われる。
山ざとは松のこゑのみきゝなれて
風ふかぬ日はさびしかりけり
蓮月は仕事の合間をみつけては、一人静かに寂寥とした松風に感じ入り、あるいは湯釜の湯相の松風の音を聞きながら茶を点て、ときに担山や猷輔とのひとときを無上の楽しみとしていたのかも知れない。
法明院敬彦和尚と蓮月尼
蓮月が心性寺にいた頃のものに「枕の山」なる一文がある。この文章は「山寺に旅寝したる夜、鹿の声をきく」として大きく三段に分かれている。
その初段は、「さる聖」の山の庵に「一人のわらわ(童)」と共に訪ねたときのもので、杉本氏は、聖を心性寺の原担山、童を富岡猷輔とされている。
中段は、おそらく北白川の心性寺にいたときのことと思われる。仲秋の名月のころ、月をめでるべく志賀越え(山中越え)の道を登っていったが、秋晴れの天気にも誘われ、山上からは琵琶湖が望まれ「例よりもさわやかなるさま、いはんかたなきまま」九十九折りの山道を大津側へと下り、坂本、唐崎まで来てしまったという。
そして、「猶行き行きて、おぼえず三井寺にいたりぬ、ここには知人のあれば、そが寺にたちよる」とある。この知人は、三井寺法明院第七世住持の敬彦和尚(一八〇七〜六〇)かと思われる。確たる史料があるわけでなく、これは筆者の推測に過ぎずないが、この三井寺の知人が誰かという言及が管見では見当らないので、あえて敬彦和尚の名を挙げて、その理由の一端を示しておく。
敬彦和尚は、字は実幢、恭堂また蘿月とも号した。文化四年(一八〇七)、大津に生まれ、長じるに従い法明院第六世・越渓敬長和尚(一七七九〜一八三六)に入室、法明院の附弟となった。俊才の誉れ高く、敬長和尚の遷化にともない若干三十歳にして法明院を襲い、また聖護院雄仁親王(一八二一〜六八)の篤く帰依するところとなり、弘化四年(一八四七)に法明院を退くに際しては、親王より「守墨軒」の額を賜っている。いま、この親王真筆の額は法明院に残っている。
また、『平安人物志』嘉永五年(一八五二)正月改版本によると「今聖護院積善院寓 三井蘿月院」とあり、おそらく法明院引退後は、万延元年(一八六〇)五十四歳で没するまで、京都にあって親王の侍読として身近にあったのであろう。そして、当時は聖護院村に住していた蓮月とも相識になったものと考えられる。
なお、同書慶応三年(一八六七)版には、没後にもかかわらず「釈実堂 号蘿月 三井」と出る。いずれにせよ、敬彦と蓮月の交際の有無は、いまだ未見の彼の遺稿、例えば『唐峯漫録』二巻、『蘿月漫録(松風蘿月集)』一巻などを当たる必要があろう。
さて、先の文章に戻ると、三井寺に到った蓮月を迎えた住持(敬彦)は、「あなめづらし、よくこそきましたれ」と大いにもてなし、そのうちに秋のこととてほどなく暮かかってきたので、また紅葉のころに来ますので、今晩は琵琶湖の月を見ながら立ち帰りますと言うと、住持は、
木々はまだそめあへぬ山の庵にしも
こよひ小鹿のなくね聞かなん
見よやこのみづ海近く住なせる
軒ばによるの波の月影
などと申すので、泊まることになり何くれと話し込んでいた。やがて布団にはいると、住持の言っていた通り、月もさし、鹿の声もほのかに聞えてくる。
えならずよ鳰てる月を庭に見て
枕に鹿のなくね聞夜は
そうこうしているうちに鹿の鳴き声が近くになってきて、
秋の夜の長等の山のやまずしも
を鹿鳴ねにねんかたぞなき
さほ鹿はわがよの秋の山深き
おもひにたえずつまやこふらん
折しも、ここに響く鐘の音におどろき聞き澄ましていたという。歌の応酬といい、なかなかの名文である。
また、蓮月は春にも有名な長等の桜をもとめて三井寺を訪れたこともあった。彼女の歌集には次のような歌も収められている。
うかれこし春のひかりの長等山
花にかすめる鐘の音かな
逢坂の小関をゆけば長等山
三井寺わたりなくほととぎす
この歌は、北白川からの志賀越えでなく、小関越えを通っており、あるいは知恩院時代のものかとも思われる。