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青眼展墓録

太田垣蓮月(四)

ペリー来航と煎茶の流行

嘉永六年(一八五三)六月、アメリ カ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航した。黒船の到来である。江戸市中は流言が飛び交い、世情は大混乱を呈する。

太平の眠りをさます蒸気船(上喜撰)
たった四坏で夜も眠れず

当時の上を下への大あわてぶりを、蒸気船と煎茶の極上品「上喜撰」の語呂合わせで諷刺した有名な狂歌である。煎茶「上喜撰」は六歌仙の一人、喜撰法師が庵を結んだ宇治の喜撰山近く、池尾の池尻村で生産されていた上質の煎茶のことで、飲むと眼がさえて夜も眠れなくなることに引っかけていることは言うまでもない。

さて、この黒船到来のニュースは、この狂歌と共にまたたく間に日本中を駆けめぐった。京都の蓮月のもとにもこの年の暮れには届き、ときに還暦を過ぎていた蓮月は「あめりか来春こむといふとしのくれに」なる詞書をもつ歌を残している。

ふりくとも春のあめりかのどかにて
世のうるほひにならんとすらん

当時からよく知られたこの歌は、漢詩的な響きをもつ「籬下(りか)の雨」あるい は「李花」「梨花」を「アメ・リカ」 にもじり、ペリー艦隊も世の潤いになるかもしれない、なにもそんなに大騒 ぎすることはなかろうとでも言いたかったのであろう。これも和歌というよ り狂歌に近いものであるが、蓮月の世間に対する一種独特の距離感というか冷静な見方を窺わせるものではある。

因みに、蓮月の詞書の通り、ペリー は翌嘉永七年(一八五四)正月に再び来航し、幕府はついに三月、鎖国体制を破る「日米和親条約」(神奈川条約) に調印することになる。

さて、この二首は、語呂合せだけでなく、共に当時の文人たちを中心に広まってきた煎茶の流行が下敷きとなっている点でも興味深い。辻ミチ子氏『女たちの幕末京都』によると、当時さかんに飲まれるようになった煎茶は、徐々にではあるが確実に抹茶中心の茶の世界を変えつつあった。天保初年には「玉露」も開発され、やがて外国貿易が始まると玉露は生糸と共に輸出品のトップ商品になったという。もとより蓮月の生計を助けた「蓮月焼」も当時の煎茶の流行、文人趣味という時代の波に乗ってのことであった。

文人趣味ということで言えば、例えば先の歌で「籬下(りか)」とくれば、誰もが陶淵明(三六五〜四二七)の「菊(きく)を采(と)る東籬(とうり)の下(もと)、悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見(み)る」 を思い浮かべるであろう。この漢詩は「廬(いおり)を結(むす)んで人境(じんきょう)に在(あ)り」で始まる「飲酒」と題する二十首の内の其五である。 ここに当時の文人といわれる人たちの「帰りなんいざ、田園まさにあれんとす」と詠った「帰去来の辞」の作者へのあこがれを見て取ることができよう。 封建社会にあって官職を辞し結廬することによって手にすることができる精神の自由、そこには社会への批判も含んでおり、これが中国の文人を手本とする「市隠」といわれる生き方への共感となり、そこに漢詩や煎茶が結びつ いたのである。


煎茶と文人の世界

現在の三条衣棚あたり戦国の世もはるか彼方となった江戸中期、ことに元禄から享保の頃ともな れば、徳川将軍を頂点とする幕藩体制も完成し、世は平和な安定期を迎える。 政治も武断から文治へと方向転換し、経済も武士に変わって町人層が実権を握るようになる。身分制の封建時代とはいえ、現世を「浮世」として肯定する時代へと大きく変化し、絢爛たる文化が花開くこととなる。

この時代、いわゆる抹茶の「茶の湯」の世界では、創始者たる千利休の茶聖 化が進み、家元制度も確立し、今日まで続く茶道として形が整ってくる。

一方、煎茶の世界では、中興の祖とされる売茶翁が登場する。

『拾遺都名所図会』に描かれた心性寺売茶翁こと柴山元昭、黄檗僧として月海と号し、後に還俗し高遊外と名乗 った人物である。彼は延宝三年(一六 七五)、肥前に生まれ、幼くして故あって出家、黄檗の禅門に参じた。享保十五年(一七三〇)頃に法弟の大潮元晧に佐賀の竜津寺を託し、念願の自由 を得て上洛。六十歳を過ぎてから下賀茂糺の森や東福寺通天橋のたもと、三 十三間堂前の松林などに茶道具を担って簡素な茶店を開き、道行く人々に茶を売る生活を始めた。八十一歳の時、 長年持ち歩いた遷(せんか、茶具を入れる担い篭)を焼き捨て、有名な「遷焼却語」を残して岡崎に蟄居。宝暦十三年(一七六三)七月十六日、八十九歳で示寂した。

萬福寺の本堂・大雄宝殿高遊外が、煎茶を選んだ背景には、 直近にはやはり当時の仏教界あるいは 「茶の湯」の世界への批判、それはつまるところ社会や権力への反発があったものと思われる。従って、煎茶には、その当初から反権力、反権威、社会へ批判精神が内包されていたといえる。 茶を売って生涯清貧を貫いた売茶翁の生き様は、後世の人々から慕われ、煎茶道として形成されていくと同時に、その姿勢が「市隠」を理想とする文人たちに受け継がれ、多くの高邁な精神を育むことになった。

やがて、この文人と煎茶の流れは、伊藤若冲(一七一六〜一八〇〇)、与謝蕪村(一七一六〜八三)、池大雅(一 七二三〜七六)、上田秋成(一七三四〜一八〇九)、木村蒹葭堂(一七三六〜一八〇二)、浦上玉堂(一七四五〜 一八一一)、田能村竹田(一七七七〜一八三五)、頼山陽(一七八〇〜一八 三二)から蓮月へ、さらには富岡鉄斎 (一八三六〜一九二四)にまで引き継がれ、日本の文化芸術に多大な影響を 与えたことは言うまでもない。

屋越の蓮月

さて、蓮月は天保三年(一八三二) に知恩院真葛庵から岡崎に移り、そこに六年ほどいたという。この期間は生計の道を模索し、土ひねりと出会い、その技術を習得する修行期間であったであろう。ほどなく蓮月の作品の評判が高くなってくると、後の話しであるが万延元年(一八六〇)頃には蓮月焼の偽物さえ出回ったというから、多くの人がひっきりなしに訪ねて来るようになり、その煩わしさから逃れるため京都の方々を転々と引越しを繰り返すようになる。

岡崎に移ってから慶応元年(一八六 五)に西賀茂に落ちつくまでの三十数年の間、岡崎村に隣接する聖護院村との間を行ったり来たり、あるときは大仏方広寺のほとり、北白川心性寺、川端丸太町など、後年、神光院の智満和尚が聞いた話では多い年には年に十三 回も引越しをしたこともあったという。その度ごとに荷物運びなどを手伝った大工のおかみさんの証言によると、なんでも「三十四度までは覚えていま す」との由。いつしか京の人は「屋越の蓮月」と呼ぶようになったという。

とはいえ、蓮月がいかに引越しを繰り返したとはいえ、その範囲は鴨川の東の地に限られていた。これは杉本秀太郎氏が指摘されている通り「少しも動かないもの、そのまわりを蓮月が動いているばかりで、まったく位置を変えない中心点のようなものがある。それは知恩院の裏山にある太田垣家の墓である。最後に養父西心を葬るまでに、養母、夫の重二郎古肥、そして四人あるいは五人の子供たち、すべて蓮月に先立った見うちの人たちの眠る墓」に参るため、そこからあまり遠ざからないよう蓮月は決めていたのであろう。

『平安人物志』と文人たち

江戸時代に出版された『平安人物 志』という本がある。京都の各方面の文化人を網羅した人名録のようなものである。明和五年(一七六八)に第一 版が出版されて以来、ほぼ十年おきに 増補改訂され幕末の慶応三年(一八六 七)の第九版まで版を重ねている。先に名前を列挙した文人たちも、そのほとんどが京都に住んだことがあり、この人名録に収録されている人物も多い。

蓮月について調べてみると、この本に名前が登場するのは、天保九年(一 八三八)、嘉永五年(一八五二)、慶応 三年(一八六七)の三回である。

最初の天保九年といえば岡崎に移って六年しか経っていないのに「女流」の項に「歌画寓居于富田氏」とあり、すでに名前は聞えていたのであろう。

嘉永五年版では住所が「大仏」となっている。この版は正月に改刻されており、前年の四月から年末まで方広寺に仮寓していたことを裏付けている。

慶応三年版では「和歌」と「良工」の項にそれぞれ名前が挙がり、すでに慶応元年に神光院に移った後だけに住所も西賀茂になっている。

ところで、蓮月が引越しを繰り返した岡崎村や聖護院村は、当時多くの文人墨客が住まいした土地柄であった。蓮月をして「京の田舎」であるこの地に引きつけたのは、先述の通り墓参りのため知恩院に近いという理由のほかに、文人が多く住むこの地が幾分か自由な雰囲気をもっていたことにもよるのではなかろうか。

岡崎での蓮月の住まいは、桂園派の創始者であった香川景樹宅(岡崎東福 ノ川町)にも近かった。やはり杉本氏によると、景樹の家塾東塢亭で弟子たちが集まって歌詠みの稽古に毎月兼題で詠進させた和歌を綴じ込んだ『東塢亭月並兼題和歌』なる記録が残されており、天保十年一月から翌年正月までの冊子に蓮月の詠歌がみえるという。 蓮月の名は毎月最も下位に見え、十一 首が記録されているというが、天保九 年版『平安人物志』に「歌画」として名前が挙がっていることから、和歌については、すでに相当な素養があった とみてよいのであろう。

香川景樹宅址の碑(京都市岡崎東福ノ川町)とはいえ、和歌のことでいえば、なによりも岡崎の地が、蓮月がかねてか ら敬仰し私淑していた歌人・小沢蘆庵 (一七二三〜一八〇一)がかつて住んでいた土地であったことが思い出され る。彼は大阪の人で、晩年は京都に移り住み、本居宣長や上田秋成の訪問を受けている。「ただごと歌」を主張、当世の平語を用いて自然な感情や心を表出することを説き、その歌論や歌風は、蓮月はもとより香川景樹など多くの歌人に強い影響を与えた。

聖護院村については、蓮月に私淑した富岡鉄斎が、八十歳前後に若年の記憶にもとづいて描いた「聖護院村略 図」なるものが残されている(『史料 京都の歴史』第八巻、左京区編の口絵写真及び解説参照)。この図には黒谷通を挟んで蓮月と鉄斎の家が描かれており、近所には漢詩人の中島棕隠(一 七七九〜一八五六)、書家で幕末三筆の一人・貫名海屋(一七七八〜一八六 三)、南画家の小田海僊(一七八五〜 一八六二)、円山派の画家・中島華陽 (一八一三〜七七)、幕末の女流歌人 ・高畠式部(一七八五〜一八八一)、 明治期の宮中歌人・税所敦子(一八二五〜一九〇〇)の住まいも記されている。この図に描かれた狭い一画だけで もこれだけの文化人が軒を並べて住んでいたことになり、まさにこの地域は京都の文化村と呼んでも差し支えなさそうである。



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