三つ栗のひとり残りて
太田垣誠(のぶ)が薙髪して蓮月となったのは、二度目の夫古肥(ひさとし)の死の前日のことである。夫の病もいよいよあらたまり、もはや死が避けられないとみたのでのあろう。せめて夫の息のあるうちに二世の契りを結ぶことを望んだものと思われる。文政二年(一八一九)に再婚してからわずか四年、またしてもつかのまの幸福であった。しかし、薙髪を決意し、現世での縁を絶ち切ることが、一人の女性として、また妻として夫に差し出しうる最後の情愛であったとすれば、これほどの悲しみの行為はない。おそらく誠は、夫の死に直面し、蓮月となることで自分の人生に決着をつけたかったのであろう。かくして蓮月は、彼女といっしょに出家し、法名西心になった老養父光古(てるひさ)と古肥の忘れ形見の女児を引連れて知恩院山内の真葛庵へと移っていった。
二年後の文政八年(一八二五)四月、またしても蓮月は、数え年七歳まで成長していた愛娘を亡くしてしまう。戒名は蓮芳智玉童女。二人の夫ばかりか前夫望古(もちひさ)との間の一男二女、古肥との間のこの女児を合わせて四人の子供たちすべてを奪われたことになる。「三十あまり夫におくれて」の詞書をもつ次の歌は、夫古肥の死後というより、おそらくこの時のものであろう。
つねならぬ世はうきものとみつぐりの
ひとり残りてものをこそおもへ
この「みつぐりの」は「三つ栗の」で、「栗のいがの中に実が三つあるものの、その真ん中の」の意で、本来は「中」や同音の地名「那賀」にかかる枕詞である。この歌では「三つ栗の」がかかるべき「中」を省略し、「世はうきものと見つ」の「見つ」と同音を重ねて「ひとり残りて」へと続く。「栗のいがの中にピッタリと収まった三つ栗のように、仲良く、ひっそりと暮らしていた親子だったのに」という心持ちである。
この省略された「中」が、亡くなった子供を指すことは言うまでもない。一つのいがに包まれた三つの実のように、両親が子供を挟んで左右から守るように生きてきたのに、まず頼るべき夫という実が一つ抜け、そして今度は真ん中の実、最愛の子供まで喪い、とうとう一人きりになってしまった。蓮月は、和歌の表面から「中」を消し、歌の背後に押しやることで、大きい悲しみに耐えようとしているかのようである。「中」を詠みこまず文字にできなかったところに、蓮月のわが子を亡くした絞り出すような呻きを感じずにはいられない。
養父光古の死
知恩院真葛庵に移ってから十年を経た天保三年(一八三二)八月、ついに養父光古が亡くなる。実の親子以上の愛情で結ばれていただけに蓮月の悲しみは深く、日々墓所に詣でては泣き暮らし、できることなら墓の傍らに住みたいと願った。蓮月自筆の自伝に「やがてちちのもとにありて、四十あまり、ちちにおくれて」と次の歌が記されているという。
たらちねの親のこひしきあまりには
墓に音をのみなきくらしつつ
『太田垣蓮月』の著者、杉本秀太郎氏は、「私はこういうところに、蓮月にとって歌が何であったかを見る。ことばの綾を用いることで、蓮月は耐えがたい不幸、不運、あるいは悲惨から、いわばその鋭いとげを抜くことで身を防禦したのである」と理解され、歌こそは蓮月にとって人生の不可欠の伴侶であった。そして「歌という伴侶は、歌の伴侶である人間に対して、よくまことをつくす」と締めくくっている。
知恩院の太田垣家の墓
今年九月初め、太田垣家の墓所に参るべく京都東山の知恩院を訪ねてきた。現在の太田垣家の菩提寺である知恩院山内の松宿院を訪ね、ご住職に墓所への道筋をお教えいただいた。それに従って知恩院境内の山手、浄土宗の開祖法然上人をまつる御影堂の奥を過ぎ、東山の斜面を登る。途中、おびただしい墓石の間を抜け、市内を一望する華頂山の中腹にそれはあった。ここには太田垣家の墓石が全部で三基建っており、今年の盆に松宿院によって回向された卒塔婆が残されていた。
墓所に向かう道すがら、なんとなく以前に来たような気がしていた。それというのも、二、三年前のこと、戦国時代の三井寺光浄院の住持で、信長、秀吉、家康の三人に仕えた戦国武将、山岡道阿弥暹慶法印の墓所に参るために一度この山坂を登ったことがあったからである。その時もやはり山岡家の菩提寺、知恩院山内の信重院の方にご案内いただいたのであった。
しかし、その時にはうかつにも気付かなかったが、驚いたことに太田垣家の墓所は、まさにこの山岡道阿弥の墓と隣り合わせに建っていたのである。全くの奇遇である。もとより太田垣家と山岡家に何らかの関係などあった由もなく、これは三井寺の者が蓮月に興味を持ったが故に起こったたぐいの奇遇であって、まったく、ぼく個人にとって不思議な巡り合わせであったと感慨深いものを覚えた。
ところで、山岡家といえば室町時代に暹芸という人が、三井寺光浄院を開基して以来の法縁で、ことに山岡道阿弥は、秀吉による文禄の闕所で荒廃した三井寺を復興すべく奔走し、現在の国宝光浄院客殿を建立したことでも知られている。まさに三井寺復興の大恩人なのである。もともと山岡家は、瀬田の唐橋で有名な瀬田城の城主をつとめた家で、三井寺との縁が出来てからは道阿弥の弟暹実をはじめ江戸時代を通じ一族のなかから三井寺に入寺する者が続いてきた。嫡流は戦国時代を生き抜き常陸で一万石の小大名として明治維新まで存続し、現在も一族の方々が三井寺に参拝されている。
さて、太田垣家の三基の墓の内、中央の「太田垣氏墓」とある墓石は、蓮月の亡養父光古から知恩院譜代の家督を継いだ養子古敦が、安政三年(一八五六)八月に建立したものである。この同じ年の春、蓮月は後の鉄斎こと富岡猷輔少年を伴って北白川の心性寺に寄寓している。しかし、安政三年といえば光古の没後二十数年を経ており、蓮月が先の和歌に詠んだように養父の墓のそばに住みたいと願った墓石そのものとは考えられない。左右の二基も光古の没した天保三年頃のものではなく、あるいは後に古敦の手によって改葬されたのであろうか。
いずれにせよ、蓮月はこの昼なお暗い鬱蒼とした木立の中に建つ養父の墓石に毎日山道をかよったことであろう。「盆のころ、みまかれりける人をおもひ出て」と詞書した歌はこの頃のものであろう。
死出の山ぼにの月よにこえつらん
尾花秋はぎかつ枝折りつつ
岡崎村と蓮月焼のこと
四十二歳にして一人きりになった蓮月は、長年住み慣れた知恩院山内から岡崎村へ移り、吉田神楽岡近くで一人住まいを始める。ここに太田垣誠の生涯は幕と閉じ、以後は蓮月尼としての半生を生きていくことになる。
この一人暮らしの生計を支えたのは、後に「蓮月焼」として有名になる陶器つくりであったが、当初は、知恩院譜代の家督を継がした養子古敦(ひさあつ)の援助があってのことかと思われる。しかし、世上一般に言われるように「文雅に親しみ、土と戯れ、和歌や書に優れた才能を発揮し」といった悠々自適の隠居生活を送っていたわけではなく、自ら生計を立てることについて蓮月は真剣であった。自活の算段として和歌の師匠などにもなろうとしたらしいが、結局は粟田口に住んでいた一老婦から煎茶用の急須「きびしょ」つくりを勧められたのがきっかけになったという。
岡崎村からは十八世紀の中頃から明治にかけて「岡崎土」と呼ばれる陶土が産出されていた。現在の岡崎天王町、粟田口付近と言われ、この土は主として京焼のひとつ粟田焼で用いられた。 粟田焼は、江戸の初めに瀬戸の陶工三文字屋九右衛門が京都に来て粟田口三条に築窯したのが発祥と伝えられてるが、すでに慶長年間(一五九六〜一六一五)には茶器が作られおり、岡崎村の南に隣接する粟田口村、今の蹴上から三条通にかけて窯を構え多くの職人が住んでいたという。粟田口に住む老婦の勧めで始めた「蓮月焼」が、ひろく粟田焼に含まれる陶器作品であることは当然のことで、蓮月自身も手びねりの作品を粟田の窯元に持ち込んで焼いてもらっていたという。
京焼といえば、現在では清水焼が代名詞であるが、かつては粟田焼も古い歴史をもつ陶芸として知られ、ことに粟田口にある天台五箇室のひとつ、青蓮院門跡の御用窯として庇護をうけ大いに栄えた。江戸中期から後期にかけては、京焼の世界を一変させた野々村仁清や永楽保全、高橋道八、仁阿弥道八などの名人、名工もみな粟田口で修業したという。文化文政の頃までは隆盛をみたが、明治以後は清水の磁器に圧され、大正の初め頃に衰微してしまった。
ところで、そもそも蓮月の岡崎行きは全くの偶然だったのだろうか。蓮月と陶器との出会いが偶然であったとしても、ズブの素人がたまたま移った場所が焼物をしていて、そこの人に偶然勧められ、短期間で売り物になるくらい技を磨くことは並大抵のことではない。
てすさびのはかなきものをもちいでて
うるまのいちにたつぞわびしき
初めのうちは、やはり「てすさびのはかなきもの」であったかも知れないが、信楽焼を学ぶために遠く近江の信楽まで出向いて修行したこともあり、二、三年で生計が立つようになっというから、やはりさすがと言うかほかない。蓮月のたぐいまれな芸術的才能と努力に敬意を表すべきであるが、岡崎に転居先を決めた理由のなかには、当時流行をみていた煎茶道への関心があったろうし、もっと具体的な作陶への意欲が早くから頭の中にあってのことではなかっただろうか。
いずれにせよ、ここ、このとき、蓮月のなかで土ひねりと歌と書が幸福な出会いをすることになる。杉本氏は先の「三つ栗」の歌を引き合いに「このとき一つ残った栗が、手仕事によって、あらたに三つ栗を作り出すことになった」と表現され、続けて「土と歌と書は、もはや偶然に集合したわけではなくて、これは蓮月の創意工夫によることであった」と述べられている。蓮月が自詠の和歌を独特のしなやなか書体で自作の陶器に彫りつけた作品は、当時の京焼の世界に大きな波紋を起こすことになった。