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青眼展墓録

太田垣蓮月(二)

蓮月尼への展墓

京都を流れる川といえば、鴨川である。祇園祭りの頃ともなれば川畔の料亭には名物の納涼床が並び、川岸は若者たちで賑わいをみせている。市中を北から南へと縦断するこの川は、また賀茂川、加茂川とも書かれる。これは近世以降、源流から高野川と合流する今出川通りに架かる加茂大橋までを賀茂川、そこから以南、中心部にかけてを鴨川と書き慣わしてきたことによる。この合流地点の北、賀茂・高野両川に挟まれた地点に下鴨神社はあり、そこから上流に向って西へ折れ北に向かう賀茂川の東畔に上賀茂神社が鎮座する。蓮月ゆかりの神光院は、川を挟んで上賀茂神社と向かい合うように川の西側に位置している。

蓮月尼墓神光院の門前からさらに西行すること五百メートルほど、浄土宗西方寺の門前を過ぎると前方山手一帯に蓮月が眠る小谷墓地の広がりが目に入ってくる。谷筋を挟んで向かって左手、斜面の中腹にひときわ目立つ桜の大樹が枝を広げている。

蓮月尼の墓は、この桜の老樹の根方に寄り添うようにある。高さわずか五十センチあまり、瓜のように円い鞍馬石に「太田垣蓮月墓」と一行だけ富岡鉄斎の筆を刻んでいる。蓮月尼のやさしい人柄が自ずとしのばれる姿である。碑裏には異筆で「寛政三年生、明治八年十二月十日没、享年八十五歳、太田垣氏建」とある。

十歳を過ぎた頃から蓮月のもとで薫陶をうけた鉄斎は、晩年の尼にとってわが子同様、かけがえのない人物であった。尼はかねてより近くの人に「無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、鉄斎だけに知らせてほしい」と頼んでいたという。それだけに墓銘を書いた鉄斎の書も見事である。後年、未曾有の画境を開拓し、数々の名作を残した書画の名家・鉄斎にして第一等と言いたほどの風格を伝えている。いつもの独特のクセをやや押さえた書体は、蓮月に対する敬慕、敬愛の念が自ずと文字になったかのようである。

蓮月尼墓と桜の大樹いまでこそ墓を守るかのように太い幹から枝葉を広げる桜であるが、蓮月が埋葬された頃には、まだか細い若木のままで、尼と対話をするかの如く向かい合っていたであろう。蓮月が没して百三十年余。墓前には有縁の人による塔婆と供花が供えられていた。

臨終と辞世

蓮月は明治八年、十月の末頃から病の床につき、十二月に入ると容態がいよいよ険悪になってきた。それでも神光院で和田智満和尚が病気平癒の祈願をされたことに「御礼筆紙につくし難く候」と自ら礼状をしたためるくらいであったが、十二月十日午後四時、寂然として往生を遂げられた。

この二ヶ月あまり付き添って看病した寂黙という尼僧が、かねて蓮月から教えられていた通り遺体を包む白木綿の一反風呂敷を出してきて広げると、そこには蓮と月の画が書いてあり、画賛に辞世がしたためられていた。

ねがはくはのちの蓮の花のうへに
くもらぬ月をみるよしもがな

これには鉄斎の話しとして「尼が七十代のころ、白木綿の一反風呂敷をつくり、それに月と蓮を描けと言われたので、言われるままに描くと、ただ畳んでしまっておく。何にするのかと、そのまま忘れていた」という直話が伝わっている。

蓮月尼の棺桶のこと

蓮月は他人に迷惑のかからぬよう死出の用意万端を整えていた。自分の入る棺桶も懇意な材木屋に頼んで材木の屑切れをもらい早くから準備していた。ところが、この棺桶、平生は用のないことから米櫃として代用されていたという。ある時、棺桶を買うことができない村人が死んだ。蓮月は米櫃として使っていた棺桶から米を別の容器に移し、「この棺桶に本当のお役目をつとめさせていただく時がきてこんなにうれしいことはない」と、こころよく差し出したという。その後はこれが例となって、同じような村人が死ぬたびに「先生の所へ往ってもらって来い」ということになって、智満和尚の話によると西賀茂だけでも尼から施棺された数はなかなか少数ではないとのことである。また、蓮月はこの棺桶に経帷子を製して入れておいた。これには次のような歌が書いてあったという。

ちりばかり心にかかる雲もなし
けふをかぎりの夕暮れの空

太田垣誠の薄幸

さてここで、蓮月の半生を駆け足で振り返っておこう。

蓮月は寛政三年(一七九一)正月八日、京都三本木で生まれた。父親は、伊賀上野藤堂藩の城代家老、藤堂新七郎良聖(よしきよ)。庶子であった。母に当たる人は世間をはばかる必要があり、生後十日ほどで京都・知恩院の寺侍であった太田垣光古(てるひさ)の養女となった。誠(のぶ)と名付けられた彼女は、八歳のときに丹波亀山城に女中奉公に出された。文化四年(一八〇七)、十七歳になった誠は、亀山城から呼び戻され、養父光古の養子となっていた望古(もちひさ)と結婚する。夫婦には二男二女が授かるが、文化十二年(一八一五)に生まれた二男・斎治のほかは皆夭折してしまう。この二男も夫望古の兄で大阪の田結荘天民の子とされている。望古は、この二男が生まれた同じ年の八月に亡くなっており、しかも誠の家ではなく大阪の兄の家で死んでいることからも何か夫婦の周辺には深刻な理由があったのであろう。

さて、文政二年(一八一九)、二十九歳になった誠は、彦根藩家中の石川広二光定の三男・古肥(ひさとし)と再婚する。しかし、この古肥も文政六年(一八二三)に没してしまう。まさに不幸の連続である。

文政六年(一八二三)六月二十八日、誠は、養父の光古と共に知恩院大僧正を戒師に拝し薙髪、「蓮月」と名を改める。光古(法名・西心)は家督を彦根藩士風見平馬の義弟、太三郎古敦(ひさあつ)に譲り、蓮月や残された子供とともに知恩院山内の真葛庵に移り住む。

その後、古肥との間にできた一男一女にも先立たれ、天保三年(一八三五)八月には、養父光古(西心)までが没してしまう。ときに蓮月四十二歳であった。

知恩院山内の真葛庵実に出生から青春時代を経て四十の坂を越えるまで、当時であれば人生の大半を過ぎるまで、彼女が結婚、出産と人並みの生活で味わねばならなかった悲しみの深さは如何ばかりであったであろう。普通の女性が経験するにはあまりにも大きすぎる悲しみに、彼女はそれでも耐えていかねばならなかった。



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