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高祖・宗祖・高僧

宗祖・智証大師(円珍 814〜891年)
智証大師

1.天台寺門宗の宗祖・智証大師円珍

第5代天台座主。三井寺(園城寺)を中興、天台別院とし、初代長吏となられます。平安時代以降、天台宗が山門派、寺門派に分かれてからは、寺門派の祖、天台寺門宗の宗祖として尊崇されています。『梁塵秘抄』にも次のように歌われています。

大師の住所はどこどこぞ 伝教慈覚は比叡の山 横川の御廟とか
智証大師は三井寺にな 弘法大師は高野の御山にまだおはします

その生涯で特筆されるのは入唐求法です。天台では伝教大師、慈覚大師に次いで中国へと渡られた大師は、天台教学はもとより長安の青竜寺法全から潅頂を受けるなど大いに密教を学び、多くの密教経典、儀軌、曼荼羅などを将来、また経典の注釈論書を撰述し、空海の密教(東密)に匹敵する台密の基礎を築かれました。
帰国後も天台教学の研究に心血を注がれる一方、清和、光孝、陽成三天皇の護持僧として、あるいは藤原良房、基経の帰依を得るなど、天台宗の布教に努められました。仁和3(887)年には草創以来、薬師堂、文殊堂、経蔵の三棟に分かれていた比叡山根本中堂(一乗止観院)を今日の原型となる9間4面東孫庇付の1棟に改築するなど比叡山延暦寺の基礎を固め、天台一宗の興隆に尽力されました。
貞観8(866)年には、真言・止観両宗の弘伝を勅許され、自らの教法が正式に認められるや三井寺を密教修学の中心道場とされ、多くの優秀な弟子たちを育てられました。
天台寺門宗の特色のひとつである修験道は、円珍が32歳の時に修験道の開祖・役行者の聖跡を巡り、那智の滝に一千日の参籠修行をしたことに始まるといわれています。
かくして天台寺門宗は、三井寺(園城寺)を総本山と仰ぎ、智証大師の法灯を継承する宗派として「顕・密・修験の三道鼎立」を教義の中心に、智証大師流の密教と天台系修験(本山派修験道)の伝統を守る宗派として発展することなります。

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2.智証大師の生涯

ご誕生
円珍は、弘仁5(814)年3月25日、讃岐国(香川県善通寺市)に生まれました。父は和気宅成。母は佐伯氏の娘で、弘法大師空海の姪にあたります。10歳で毛詩、論語などを習い、天長五(828)年に叔父の僧仁徳(伝教大師の弟子)に従って上洛。翌天長6年に天台宗の総本山比叡山延暦寺に登り、初代座主・義真(778〜833年)の弟子になりました。
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比叡山入山

当時、正式な僧侶になるには国家試験を受けなければなりませんでした。合格者は年分度者とよばれ、比叡山では年に2人しか出せない決まりでした。

  19歳の春、円珍はこの試験に抜群の成績で合格し、翌年には、義真を拝して菩薩戒を受け、一人前の僧侶となり、比叡山の掟に従って1期12年の籠山修行に入られます。
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黄不動尊の感得
籠山修行中の承和5(838)年冬、座禅中の円珍の前に金色に輝く不動明王が忽然と現れます。そして、「我は金色不動明王である。仏法の真髄を伝える汝を守護するために示現するものなり。仏の教えを究めて迷える衆生を導くべし」と告げられ、その尊容を描き礼拝するように命じられます。このとき描かれた尊像が、日本三不動のひとつとして著名な秘仏・金色不動明王(黄不動尊)の画像(国宝)です。この黄不動尊は、以後も円珍に危難迫るときには必ず影現され、円珍の生涯にわたって守護されます。
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三井修験道の始まり
籠山修行を終えられた円珍は、承和12(845)年、役行者の足跡を慕い、葛城、大峰、熊野三山を巡礼し、那智の滝に参籠されます。この円珍の事跡が、円・密・修験の三道融会をかかげる三井修験(本山派修験道)の起源をなすもので、大峰山は、智証門流をはじめとする修験者の活躍により霊山として発展していくことになります。
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新羅明神の示現
承和13(846)年、修行を積まれた円珍は、33歳にして比叡山の衆僧に推されて比叡山一山の真言学頭となります。この頃より円珍の夢に山王明神が現れ、中国唐に渡って仏法を求めるよう勧められることが度々あり、ついに仁寿3(853)年、入唐求法の旅へと出発されます。
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入唐求法への旅

6年間にわたる在唐中、天台山国清寺において日本からの留学僧のために止観堂(天台日本国大徳僧院)を建立するなど、各地を遍歴し数々の法門を伝授されました。

  長安では、青竜寺法全和尚から「両部大教阿闍梨位潅頂法」という密教の奥旨を伝授され、新しい密教を日本に伝えられました。また法全は自ら秘蔵する「五部心観」を円珍に付与されます。この「五部心観」は、盛唐密教美術の精髄を示すものとして国宝に指定され、現在も三井寺に大切に伝持されています。
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ご将来経典と唐院の創建
天安2年(858)、円珍は441部1000巻の貴重な経典をたずさえ帰朝されました。これらの経典類は、新羅明神の夢告により園城寺唐院に永蔵されることになります。新羅明神は、帰朝の船中で円珍の前に影現された守護神で、その霊像は秘仏として三井寺に祀られています。
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三井寺の再興
貞観8(866)年5月29日、太政官牒をもって真言・止観両宗弘伝の公験を賜わり、円・密・禅・戒の四宗に併せて修験の一道を加える天台寺門の教法が正式に認められました。同年には三井寺の別当職にも任じられます。この職は長吏と呼ばれ、今日で162代を数えています。
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晩年の付法とご入滅

貞観6(864)年7月、宮中仁寿殿において大悲胎蔵潅頂壇が設けられ、円珍が親しく清和天皇、藤原良房など潅頂を授けました。貞観10(868)年には、第5代天台座主に登られ、寛平3(891)年10月29日、78歳をもって入滅されるまで24年の長きにわたり仏法と天台宗のために尽くされました。門下には500余人の弟子が育ち、その教えを受けた人々は3000余人に登るといわれています。

  延長5(927)年には、醍醐天皇より「智証大師」の諡号が贈られました。
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3.智証大師年譜

4.智証大師和讃

参考文献
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