智証大師円珍の入唐求法にまつわる若干の問題(前編)
はじめに 円珍は九世紀の人である。 当代を代表する漢詩人の島田忠臣(八二八〜八九二年)は、菅原道真の師として知られているが、天台宗に心を寄せていた彼は、比叡山にまつわる作品も残している。『田氏家集』に収められた一首に「禅師の山に還るを送る」がある(1)。 清儀映日向山家
円珍は、弘仁五年(八一四)、讃岐国に生まれ、十五歳にして比叡山に登り、義真の門に入った。天長十年(八三三)に年分度者として得度授戒し、一紀十二年の籠山に入った。仁寿三年(八二三)に入唐求法の大願を果たし、五年間の在唐中に天台山国清寺、長安の青龍寺などで天台学、密教などを学んだ。帰国後は、天台宗の興隆と天台密教の充実に努め、貞観十年(八六八)には天台座主に登り、寛平三年(八九一)七十八歳で入滅した。延長五年(九二七)には、醍醐天皇より智証大師の諡号が贈られている。
円珍に関しては、すでに様々な観点から論じ尽くされてきたところであるが(5)、本論では、九世紀という時代を生きた円珍の生涯について、とくに大きな成果をもたらした入唐求法について若干の愚説を加えてみたい。
第一章 円珍、入唐への歩み 一、『円珍伝』が伝える入唐求法への経緯 円珍が入唐求法への志を抱いた事情あるいは動機について物語る根本史料は、三善清行の『円珍伝』並びに園城寺に伝来する国宝指定の「智証大師関係文書典籍」に含まれる貞観五年(八六三)の「円珍請伝法公験奏状案」、本奏状により貞観八年(八六六)五月二十九日に発給された「太政官給公験牒」などである。 先ず、『円珍伝』における該当部分は、次の通りである。 (一) 和尚一十二年、経論を究閲し、其の中の疑滞、人の蒙を撃つこと無し、卒然として心を馳せ、西唐に遊ばんことを思う (二) 嘉祥三年春、夢に山王明神告て曰く、公早く入唐求法の志を遂ぐべし、留連致すこと勿れと、和尚答へて云く、近来、請益闍梨和尚仁公、三密を究学して本山に帰着す、今何ぞ海を航するの意に汲々とする遑あらんやと、神重て勧めて云く、公の語の如くんば、世人、多く髪を剃りて僧と為らん、公、何を以てか昔は髪を剃るの志に汲々たりしやと (三) 明年春、明神重て語て云く、沙門は宜しく求法の為に其の身命を忘るべし、況や今、公の利渉の謀は、万全の冥助有らんをや、努力、努力、疑慮を生ずること勿れ、和尚夢中に許諾し、乃て意旨を録し、表を杭げて以て聞す、主上深く懇誠を感じ、便ち許可を蒙る (四) 天台山図を披く毎に、恒に華頂・石橋の形勝を瞻るも、未だ良縁に遇はず、久しく以て思ひをば存す、爰に田邑の聖主、国を享くるに至り、伏して特に恩許を賜う事を蒙り、界を出で、嘉祥四年四月十五日、京輩を辞し、太宰府に向う (一)は、承和十一年(八四四)、円珍三十一歳。一紀十二年の籠山業を終えようとしていた時期である(6)。止観・遮那の両業にわたって学識を蓄えつつあった円珍は、「同学等と共に至再至三、求法の事を議し、終に七年十一月七日を以て、自ら願文を修し、比叡明神廟に詣で入唐して法を学ぶの願いを祷祈す」(「円珍請伝法公験奏状案」第一草本)とある通り、すでに籠山中の承和七年(八四〇)には入唐について同学の者と相談を重ね、ついに願文を作成して比叡明神へ参詣するほどであった。それは延暦寺の同学者のみならず、『円珍伝』が「図書頭惟良宿禰貞道と忘言の契り有り、対語に至る毎に、終日竟夜、清言倦むこと無く、相ひ倶に内外の疑義を論難し、経籍の誤謬を質正す、誓ひて云く、緇素異なると雖も、契つて兄弟となり、生々世々の中、交執の志を欠くこと無からん」と伝える通り惟良貞道をはじめ春澄善縄など在俗の官人、文人との交際も含まれており、円珍は彼等からも多くの刺激をうけていたであろう(7)。 当時の円珍の学識には顕著なものがあり、籠山の明けた承和十三年(八四六)七月二十七日には衆議によって真言学頭に推挙されている(8)。その時の寺衙牒を『円珍伝』は引いて「年歯未だ深からずと雖も顕密を習学し、他宗を博覧し、才操倫を超え、智略尤も深し」と高い評価を与えられ、将来を嘱望されていた。ことに承和十年(八四三)に入唐中の円載から天台山禅林寺広修と同山国清寺維蠲の「唐決」や経論がもたらされ、さらに円修も入唐から帰朝したことが、円珍の学問的探求心をより大きく揺り動かすことになった(9)。従って、(一)西唐遊学の記事は、円珍が籠山中から入唐求法の志を抱き、学業をいっそう深めたいという学問的な動機であった。 次に(二)と(三)は、入唐求法を勧める山王明神の夢告である。嘉祥三年(八五〇)、円珍三十七歳のときと翌四年の二度にわたって山王明神が夢に現れて入唐求法を勧めたという。円珍の神祇信仰、ことに大小比叡明神に対する信仰については、菅原信海師の論考に詳しく(10)、「智証大師円珍の神祇信仰の中で、顕著な特色は、大比叡・小比叡両神のために年分度者を賜ったことと、また山王三聖信仰を確立したことであろう。山王三聖信仰は、円珍のときに創唱され発展していったもの」であった(11)。もちろん山王明神の夢告は、円珍の山王信仰を示す初出記事である「円珍請伝法公験奏状案」第一草本の承和七年十一月七日の入唐願文の作成と比叡明神への祷祈との関係が考えられるが、ただ嘉祥三年は、承和十四年(八四七)の円仁の帰朝後であり、承和七年から同十一年とは状況が異なっており、二度にわたる山王明神の夢告は、入唐求法に対する円珍自身の逡巡、あるいは円仁とその門流に対する配慮が働いたであろうことを推測させる。また同時に、円珍が「夢中許諾、乃録意旨、杭表以聞」と入唐を最終的に決意した背景には、嘉祥三年の文徳天皇即位と惟仁親王立太子にともなう藤原良房、良相兄弟の支援を期待できる環境が整いつつあったこともうかがわせる(12)。 尚、ここで言及されている円珍の入唐願文は、現在は伝わっていないが、貞和二年(一三四六)六月一日の「御書等目録注進状」並びに永正九年(一五一二)十月六日の「御書等目録」に「入唐願文、満位々々、五紙」との記載がある(13)。もちろん同一の願文とは断定できないが、永享九年(一四三七)の「選出円珍公験等文書目録」には、「入唐願文五枚」が永享七年(一四三五)十二月十五日に「御入唐願文一通、被進公方畢」とあり、これが同九年九月十二日に「先年御成之時、公方進上之御筆被写止之書本被櫃入置事」との経緯を経て(14)、少なくとも永正九年までは「入唐願文」なるものが存在していたことになる。しかし、応仁元年(一四六七)の跋文をもつ尊通撰『智証大師年譜』には、願文についてふれておらず(15)、明和四年(一七六七)に敬光の『唐房行履録』巻之下に収められた「撰述目録」では亡失した著述一覧に「入唐願文一篇」として挙がり(16)、江戸時代にはすでに失われていたことになる。それにしても「入唐願文」の逸文さえ伝わらなかったことは大いに不審とするところである。 (四)は、園城寺に国宝として現存する貞観八年(八六六)五月二十九日付の「太政官給公験牒」から全文転載された部分に含まれている(17)。ことに、この部分の後半は『日本三代実録』にも、ほぼそのまま引用されており、「『日本三代実録』の編纂材料が現存する希有な部分」となっている(18)。いずれにせよ、ここでは入唐求法への意志を端的に天台山への憧憬として語るにとどまっている。 以上、『円珍伝』が伝える入唐の動機として、ひとまずは①究学への熱意、②山王明神への信仰、③天台山への憧憬の三点にまとめることができる。
二、『円珍伝』に採録された記事の問題点 ここで問題となるのは、貞観八年「太政官給公験牒」や貞観五年「円珍請伝法公験奏状案」に典拠をもつ(四)を除いて、(一)・(二)・(三)が、『円珍伝』のみが伝えるもので、事実関係について信憑性に欠けるとされてきた点である。しかし、『円珍伝』の素材と構成を詳細に検討された所功氏によると、この部分は口述史料の内でも弟子が円珍から直接聞いた記憶に分類されており(19)、また、最終的に削除されたとはいえ「円珍請伝法公験奏状案」第一草本にも対応する記述がみられることからも、(一)・(二)・(三)は、その他の史料に見当たらないからといって事実関係を含めてことさら否定する理由は存しないと考えられる。ことに佐伯有清氏は、山王夢告について「円珍はよく夢を見るひとであった。そこで、山王明神の入唐求法を勧める夢の話も、事実であった可能性もないことではない。しかし、そのすべてを信じないほうが無難である」と指摘されている(20)。たしかに他に参照すべき史料を欠く場合、『円珍伝』の記述を全面的に信頼するのは危険であるが、円珍の特別な山王信仰のことを考慮したとき、少なくとも後年になって円珍がその生涯に出会った様々な体験を弟子たちに語ったという事実まで否定することはできないであろう。 さらに付言すれば、同氏は黄不動尊の感得について後世の伝説であって「円珍が不動明王を感見したという話は、事実にもとづくものではない」と断定されている(21)。しかし、この場合も円珍が自らの体験を弟子に語ったことまで否定することはできないであろう。ことに同氏が根拠とされたのは、園城寺に現存する国宝の黄不動尊画像の「成立が九世紀末とされている」という一点のみである。九世紀末といっても円珍の入滅が寛平三年(八九一)であり、ことに平成八年(一九九六)から同十年(一九九八)にかけて実施された修理に伴う調査において、調査当初から主導的役割を果たされた安嶋紀昭氏も「その制作には円珍が直接に関与した可能性が極めて高い」とされ、画像の成立を円珍存命中とみることに何ら障碍はない(22)。
三、貞観五年の「円珍請伝法公験奏状案」について ここで(四)天台山への憧憬について、現存する貞観五年(八六三)「円珍請伝法公験奏状案」から貞観八年(八六六)「太政官給公験牒」について検討したい。 貞観五年の「円珍請伝法公験奏状案」は、円珍が入唐求法を果たし、帰国後に先師最澄、義真の例に准じて朝廷から伝法のための公験を給付されるよう奏請したものある。貞観八年五月二十九日付の「太政官給公験牒」は、本奏状に応えて太政官から給付された伝法の公験である。入唐の当初から帰国するまでの求法の経緯を記した両文書は、円珍の生涯にとって最も重大な意味を持つ文書である。 「円珍請伝法公験奏状案」は、貞観五年三月七日の草本(二通一巻)と貞観五年十一月十三日の自筆本一巻である。この二通の草本は、現在、一巻の表裏に別々に貼り合わせており、裏面(背書)が最初の第一草本(初稿)で円珍の加筆が施され、表面は初稿をもとにさらに加筆修正された第二草本(再稿)で、やはり円珍の加筆が残されている。自筆本は、円珍の清書本で、再稿とほとんど文字の異同はなく、また「太政官給公験牒」にもそのまま引用されており、最終的に提出された奏状の案文であると考えられる。円珍は、自らの入唐求法に公的な意義付けを受けるべく申請した文書だけに細心の注意を払って推敲を重ね、文章を練り上げていった経緯が判る貴重な資料である。この草本二通と自筆本との異同については、すでに綿密な分析が報告されているが、ここでは、その成果に依拠しつつ、円珍入唐の動機についてさらに探ってみたい。
四、第一草本と第二草本、清書本の異同 第一草本の初稿段階では、入唐へと至る経緯は次の通りである。 爰に同学等と共に至再至三、求法の事を議し、終に七年十一月 この本文に円珍自らが添削して 天台山図を披く毎に、恒に久しく華頂・石梁の形勝を瞻るも、 と書き入れている。この書き入れ文が基本的に再稿以降では生かされ、初稿の本文はすべて削除され、 天台山図を披く毎に、恒に華頂・石橋の形勝を瞻るも、未だ として「太政官給公験牒」に定着している。 初稿の本文については、先ず門弟が草稿を書き上げ、そこに円珍が添削しており、この部分には円珍が貞観五年の時点から入唐前の自己を回想しつつ、かつ自らの業績を公的に認めてもらうことを念頭において筆を入れたはずである。 初稿段階では、当時は「其主」に会わず、入唐への思いが実現しなかったという本文であったが、これに円珍自らが訂正を施し、天台山図を見るたびに天台山への思慕の念が高まり、いつか必ず行きたいものだと思っていたが、まだ当時は「好時」あるいは「良縁」に恵まれず願いが果たせなかった、と大きく変化している。もっとも最終的に削除されたとはいえ、「爰同学等」以下の部分は、初稿を添削した段階では抹消されておらず、円珍自身も初稿段階では生かすつもりがあったのかも知れない。たとえ初稿を門弟が書いたとしても願文の作成年月日まで明記していることからも何らかの資料が手元にあったと推測され、入唐について同学の者たちに相談を重ね、ついに願文を作成して比叡明神へ参詣したという記述は、おそらく事実であったと思われる(23)。また、再稿以降の天台山図を見て入唐への思いが高まったいう記述も『円珍伝』の「西唐遊学」に通じるものがあり、やはり事実であったと想定できるであろう。従って、いずれの記事も実際に円珍が入唐までに体験してきた事実であったと考えられ、初稿から再稿以降の変更は、伝法の公験を申請するための公的な文書であるが故に円珍自らが記載する記事を慎重に選択した結果であると考えられる。
第一章 円珍、入唐への歩み 五、初稿を書き換えた理由 この変更について、佐伯有清氏は、「未会其主」に着目され、「其主」を「主として良房・良相のごとき後援者とみなしてよい」とされ、「削除したのは、それが書かれた貞観五年の段階で、良房・良相にたいする遠慮の気持ちが働いたからであろう」とされている(24)。たしかに円珍の入唐は、藤原良房、良相兄弟の存在なくしては実現しなかったことは、多くの先学の指摘の通りである。しかし、この文章は、初稿では「未会其主」に続いて「遂遇仁寿至聖享国」とあり、再稿以降も「爰に田邑の聖上(文徳天皇)、国を享くるに至り、伏して特に恩許を賜り、界を出づることを蒙る」となっており、「其主」は、もちろん文徳天皇を指している。たしかに公的な性格をもった文書として、あくまでも文徳天皇の勅許によって入唐を果たせたことを強調しつつ、実質的には藤原良房、良相兄弟への配慮も働いたことと思われるが、再稿以降においても「好時に遇はず」あるいは「良縁に遇はず」としているのだから、やはり遠慮をするなら、この語句も別の表現に変更されたのではなかろうか。そこで着目すべきは、「毎披天台山図」以下の添削文が、天長十年(八三三)に師僧義真を亡くした際の心情を記述した「師主の早く壑舟に徒りたまへるに遭ひ、鑽仰する地無く、犢の母を思うが如く、愁悶の至り、日に在て夜の若し」という部分を抹消して、その横に書き入れられている点である。やはり貞観五年時の円珍としては、天長十年(八三三)の義真没後の延暦寺の複雑な情勢をふまえ(25)、また当時は座主として存命していた円仁をはじめとする門弟たちのことを配慮し、他に誤解を招かないよう義真入滅に対する円珍の心情と併せて初稿を全面的に書き改めたのであろう。即ち、本奏状における円珍の添削の姿勢は、奏状という文書の性格上、第一に①入唐求法の成果を強調し、②入唐へと至る経緯については天台山への思慕の一点に絞り、③やはり初稿の「随分苦切して真言・止観の宗を習学す」という表現を「式に依りて一紀棲山し遮那・止観の宗を習学す」と書き改めているように情緒的ともとれる曖昧な表現を避けて事実を的確に記したことが認められるであろう。
【註】 (1) 『田氏家集』(『群書類従』第九輯所収)。 (2) 小島憲之監修『田氏家集注』巻之上(和泉書院、一九九一年)三木雅博訳注、中村璋八・島田伸一郎『田氏家集全釈』(汲古書院、一九九三年)。 (3) 『智証大師全集』下巻所収(園城寺、一九一八年)。 (4) 『園城寺文書』第一巻(講談社、一九九八年)。 (5) 佐伯有清『円珍』人物叢書(吉川弘文館、一九九〇年)の巻末には詳細な参考文献が付されている。主なものを挙げると『園城寺之研究』(星野書店、昭和六年)、小野勝年『入唐求法行歴の研究』智証大師円珍篇(法蔵館、一九八二年)、佐伯有清『智証大師伝の研究』(吉川弘文館、一九八九年)、小山田和夫『智証大師円珍の研究』(吉川弘文館、平成二年)、『智証大師研究』(同朋舎、一九八九年)などがある。 (6) 佐伯有清『智証大師伝の研究』一九三頁。 (7) 円珍と文人との交流については、新井栄蔵・後藤昭雄編『叡山をめぐる人びと』(世界思想社、一九九三年)、後藤昭雄『平安朝文人志』(吉川弘文館、一九九三年)、同氏『天台仏教と平安朝文人』(吉川弘文館、二〇〇二年)。 (8) 「真言学頭補任状」『園城寺文書』第一巻所収【五】。 (9) 佐伯有清『円珍』二六頁並びに六五頁。 (10) 菅原信海『山王神道の研究』(春秋社、一九九二年)並びに同氏「智証大師円珍の山王信仰」(前掲『智証大師研究』所収)。 (11) 菅原信海前掲書五五頁。 (12) 佐伯有清前掲書三八頁以下。 (13) 『園城寺文書』第一巻所収【六六】【六七】。 (14) 『園城寺文書』第一巻所収【五三ー六】。 (15) 尊通撰『智証大師年譜』森江書店、一八八〇年。 (16) 敬光編『唐房行履録』(『大日本仏教全書』第七二巻所収)。 (17) 『園城寺文書』第一巻所収【四三】(先本)・【四四】(後本)。 (18) 小山田和夫『智証大師円珍の研究』一八三頁。 (19) 所功「『円珍和尚伝』の素材と構成」(日本仏教宗史論集『伝教大師と天台宗』所収、吉川弘文館、一九八五年)。 (20) 佐伯有清前掲書三六頁。 (21) 佐伯有清前掲書一五頁。 (22) 園城寺編『秘仏金色不動明王画像』朝日新聞社、二〇〇一年。 (23) 佐伯有清前掲書二〇頁以下。 (24) 佐伯有清前掲書二八頁。 (25) 小山田前掲書五三頁以下。
智証大師円珍の入唐求法にまつわる若干の問題(後編)
第二章 円珍の入唐前に披見した「天台山図」 一、『天台霊応図本伝集』と孫綽「遊天台山賦」
二、徐霊府『天台山記』と円珍将来の「天台山小録」
三、円珍の見た天台山の風景
おわりに
【註】
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