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福家俊彦


智証大師円珍の入唐求法にまつわる若干の問題(前編)

はじめに

円珍は九世紀の人である。

当代を代表する漢詩人の島田忠臣(八二八〜八九二年)は、菅原道真の師として知られているが、天台宗に心を寄せていた彼は、比叡山にまつわる作品も残している。『田氏家集』に収められた一首に「禅師の山に還るを送る」がある(1)

 清儀映日向山家
清儀日に映えて 山家に向かふ
穿入深峰破幾霞
深峰に穿ち入りて 幾霞を破る
何物寂寥相待見
何物ぞ 寂寥として相待見するは
香炉煙與水瓶花
香炉の煙と水瓶の花と

この禅師は、従来の注釈では円珍とされ、制作年代は嘉祥三年(八五〇)から仁寿三年(八五三)の間に比定されている(2)。円珍は仁寿元年(八五一)四月には入唐のため太宰府に向かっているので、禅師を円珍とすると、嘉祥三年から翌仁寿元年の四月までとなり、入唐を目前に控えた円珍三十七歳から三十八歳の姿となる。夕陽を浴びながら比叡山へと帰っていく清澄な後ろ姿からは、入唐求法への篤い思いを心中に秘めた円珍の静謐な姿を読み取ることも可能であろう。

円珍は、弘仁五年(八一四)、讃岐国に生まれ、十五歳にして比叡山に登り、義真の門に入った。天長十年(八三三)に年分度者として得度授戒し、一紀十二年の籠山に入った。仁寿三年(八二三)に入唐求法の大願を果たし、五年間の在唐中に天台山国清寺、長安の青龍寺などで天台学、密教などを学んだ。帰国後は、天台宗の興隆と天台密教の充実に努め、貞観十年(八六八)には天台座主に登り、寛平三年(八九一)七十八歳で入滅した。延長五年(九二七)には、醍醐天皇より智証大師の諡号が贈られている。

ことに、園城寺(三井寺)を中興し、寺門派の祖と仰がれる生涯は、没後十余年を経た延喜二年(九〇二)に三善清行によって撰述された『天台宗延暦寺座主円珍伝』(以下『円珍伝』という)にみることができる(3)。また、寺門派の総本山として円珍の法脈を伝える園城寺には、円珍関係の文書史料が多く残され、「智証大師関係文書典籍」として国宝に指定されている(4)

円珍に関しては、すでに様々な観点から論じ尽くされてきたところであるが(5)、本論では、九世紀という時代を生きた円珍の生涯について、とくに大きな成果をもたらした入唐求法について若干の愚説を加えてみたい。

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第一章 円珍、入唐への歩み

一、『円珍伝』が伝える入唐求法への経緯

円珍が入唐求法への志を抱いた事情あるいは動機について物語る根本史料は、三善清行の『円珍伝』並びに園城寺に伝来する国宝指定の「智証大師関係文書典籍」に含まれる貞観五年(八六三)の「円珍請伝法公験奏状案」、本奏状により貞観八年(八六六)五月二十九日に発給された「太政官給公験牒」などである。

先ず、『円珍伝』における該当部分は、次の通りである。

(一) 和尚一十二年、経論を究閲し、其の中の疑滞、人の蒙を撃つこと無し、卒然として心を馳せ、西唐に遊ばんことを思う

(二) 嘉祥三年春、夢に山王明神告て曰く、公早く入唐求法の志を遂ぐべし、留連致すこと勿れと、和尚答へて云く、近来、請益闍梨和尚仁公、三密を究学して本山に帰着す、今何ぞ海を航するの意に汲々とする遑あらんやと、神重て勧めて云く、公の語の如くんば、世人、多く髪を剃りて僧と為らん、公、何を以てか昔は髪を剃るの志に汲々たりしやと

(三) 明年春、明神重て語て云く、沙門は宜しく求法の為に其の身命を忘るべし、況や今、公の利渉の謀は、万全の冥助有らんをや、努力、努力、疑慮を生ずること勿れ、和尚夢中に許諾し、乃て意旨を録し、表を杭げて以て聞す、主上深く懇誠を感じ、便ち許可を蒙る

(四) 天台山図を披く毎に、恒に華頂・石橋の形勝を瞻るも、未だ良縁に遇はず、久しく以て思ひをば存す、爰に田邑の聖主、国を享くるに至り、伏して特に恩許を賜う事を蒙り、界を出で、嘉祥四年四月十五日、京輩を辞し、太宰府に向う

(一)は、承和十一年(八四四)、円珍三十一歳。一紀十二年の籠山業を終えようとしていた時期である(6)。止観・遮那の両業にわたって学識を蓄えつつあった円珍は、「同学等と共に至再至三、求法の事を議し、終に七年十一月七日を以て、自ら願文を修し、比叡明神廟に詣で入唐して法を学ぶの願いを祷祈す」(「円珍請伝法公験奏状案」第一草本)とある通り、すでに籠山中の承和七年(八四〇)には入唐について同学の者と相談を重ね、ついに願文を作成して比叡明神へ参詣するほどであった。それは延暦寺の同学者のみならず、『円珍伝』が「図書頭惟良宿禰貞道と忘言の契り有り、対語に至る毎に、終日竟夜、清言倦むこと無く、相ひ倶に内外の疑義を論難し、経籍の誤謬を質正す、誓ひて云く、緇素異なると雖も、契つて兄弟となり、生々世々の中、交執の志を欠くこと無からん」と伝える通り惟良貞道をはじめ春澄善縄など在俗の官人、文人との交際も含まれており、円珍は彼等からも多くの刺激をうけていたであろう(7)

当時の円珍の学識には顕著なものがあり、籠山の明けた承和十三年(八四六)七月二十七日には衆議によって真言学頭に推挙されている(8)。その時の寺衙牒を『円珍伝』は引いて「年歯未だ深からずと雖も顕密を習学し、他宗を博覧し、才操倫を超え、智略尤も深し」と高い評価を与えられ、将来を嘱望されていた。ことに承和十年(八四三)に入唐中の円載から天台山禅林寺広修と同山国清寺維蠲の「唐決」や経論がもたらされ、さらに円修も入唐から帰朝したことが、円珍の学問的探求心をより大きく揺り動かすことになった(9)。従って、(一)西唐遊学の記事は、円珍が籠山中から入唐求法の志を抱き、学業をいっそう深めたいという学問的な動機であった。

次に(二)と(三)は、入唐求法を勧める山王明神の夢告である。嘉祥三年(八五〇)、円珍三十七歳のときと翌四年の二度にわたって山王明神が夢に現れて入唐求法を勧めたという。円珍の神祇信仰、ことに大小比叡明神に対する信仰については、菅原信海師の論考に詳しく(10)、「智証大師円珍の神祇信仰の中で、顕著な特色は、大比叡・小比叡両神のために年分度者を賜ったことと、また山王三聖信仰を確立したことであろう。山王三聖信仰は、円珍のときに創唱され発展していったもの」であった(11)。もちろん山王明神の夢告は、円珍の山王信仰を示す初出記事である「円珍請伝法公験奏状案」第一草本の承和七年十一月七日の入唐願文の作成と比叡明神への祷祈との関係が考えられるが、ただ嘉祥三年は、承和十四年(八四七)の円仁の帰朝後であり、承和七年から同十一年とは状況が異なっており、二度にわたる山王明神の夢告は、入唐求法に対する円珍自身の逡巡、あるいは円仁とその門流に対する配慮が働いたであろうことを推測させる。また同時に、円珍が「夢中許諾、乃録意旨、杭表以聞」と入唐を最終的に決意した背景には、嘉祥三年の文徳天皇即位と惟仁親王立太子にともなう藤原良房、良相兄弟の支援を期待できる環境が整いつつあったこともうかがわせる(12)

尚、ここで言及されている円珍の入唐願文は、現在は伝わっていないが、貞和二年(一三四六)六月一日の「御書等目録注進状」並びに永正九年(一五一二)十月六日の「御書等目録」に「入唐願文、満位々々、五紙」との記載がある(13)。もちろん同一の願文とは断定できないが、永享九年(一四三七)の「選出円珍公験等文書目録」には、「入唐願文五枚」が永享七年(一四三五)十二月十五日に「御入唐願文一通、被進公方畢」とあり、これが同九年九月十二日に「先年御成之時、公方進上之御筆被写止之書本被櫃入置事」との経緯を経て(14)、少なくとも永正九年までは「入唐願文」なるものが存在していたことになる。しかし、応仁元年(一四六七)の跋文をもつ尊通撰『智証大師年譜』には、願文についてふれておらず(15)、明和四年(一七六七)に敬光の『唐房行履録』巻之下に収められた「撰述目録」では亡失した著述一覧に「入唐願文一篇」として挙がり(16)、江戸時代にはすでに失われていたことになる。それにしても「入唐願文」の逸文さえ伝わらなかったことは大いに不審とするところである。

(四)は、園城寺に国宝として現存する貞観八年(八六六)五月二十九日付の「太政官給公験牒」から全文転載された部分に含まれている(17)。ことに、この部分の後半は『日本三代実録』にも、ほぼそのまま引用されており、「『日本三代実録』の編纂材料が現存する希有な部分」となっている(18)。いずれにせよ、ここでは入唐求法への意志を端的に天台山への憧憬として語るにとどまっている。 以上、『円珍伝』が伝える入唐の動機として、ひとまずは①究学への熱意、②山王明神への信仰、③天台山への憧憬の三点にまとめることができる。

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二、『円珍伝』に採録された記事の問題点

ここで問題となるのは、貞観八年「太政官給公験牒」や貞観五年「円珍請伝法公験奏状案」に典拠をもつ(四)を除いて、(一)・(二)・(三)が、『円珍伝』のみが伝えるもので、事実関係について信憑性に欠けるとされてきた点である。しかし、『円珍伝』の素材と構成を詳細に検討された所功氏によると、この部分は口述史料の内でも弟子が円珍から直接聞いた記憶に分類されており(19)、また、最終的に削除されたとはいえ「円珍請伝法公験奏状案」第一草本にも対応する記述がみられることからも、(一)・(二)・(三)は、その他の史料に見当たらないからといって事実関係を含めてことさら否定する理由は存しないと考えられる。ことに佐伯有清氏は、山王夢告について「円珍はよく夢を見るひとであった。そこで、山王明神の入唐求法を勧める夢の話も、事実であった可能性もないことではない。しかし、そのすべてを信じないほうが無難である」と指摘されている(20)。たしかに他に参照すべき史料を欠く場合、『円珍伝』の記述を全面的に信頼するのは危険であるが、円珍の特別な山王信仰のことを考慮したとき、少なくとも後年になって円珍がその生涯に出会った様々な体験を弟子たちに語ったという事実まで否定することはできないであろう。

さらに付言すれば、同氏は黄不動尊の感得について後世の伝説であって「円珍が不動明王を感見したという話は、事実にもとづくものではない」と断定されている(21)。しかし、この場合も円珍が自らの体験を弟子に語ったことまで否定することはできないであろう。ことに同氏が根拠とされたのは、園城寺に現存する国宝の黄不動尊画像の「成立が九世紀末とされている」という一点のみである。九世紀末といっても円珍の入滅が寛平三年(八九一)であり、ことに平成八年(一九九六)から同十年(一九九八)にかけて実施された修理に伴う調査において、調査当初から主導的役割を果たされた安嶋紀昭氏も「その制作には円珍が直接に関与した可能性が極めて高い」とされ、画像の成立を円珍存命中とみることに何ら障碍はない(22)

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三、貞観五年の「円珍請伝法公験奏状案」について

ここで(四)天台山への憧憬について、現存する貞観五年(八六三)「円珍請伝法公験奏状案」から貞観八年(八六六)「太政官給公験牒」について検討したい。

貞観五年の「円珍請伝法公験奏状案」は、円珍が入唐求法を果たし、帰国後に先師最澄、義真の例に准じて朝廷から伝法のための公験を給付されるよう奏請したものある。貞観八年五月二十九日付の「太政官給公験牒」は、本奏状に応えて太政官から給付された伝法の公験である。入唐の当初から帰国するまでの求法の経緯を記した両文書は、円珍の生涯にとって最も重大な意味を持つ文書である。

「円珍請伝法公験奏状案」は、貞観五年三月七日の草本(二通一巻)と貞観五年十一月十三日の自筆本一巻である。この二通の草本は、現在、一巻の表裏に別々に貼り合わせており、裏面(背書)が最初の第一草本(初稿)で円珍の加筆が施され、表面は初稿をもとにさらに加筆修正された第二草本(再稿)で、やはり円珍の加筆が残されている。自筆本は、円珍の清書本で、再稿とほとんど文字の異同はなく、また「太政官給公験牒」にもそのまま引用されており、最終的に提出された奏状の案文であると考えられる。円珍は、自らの入唐求法に公的な意義付けを受けるべく申請した文書だけに細心の注意を払って推敲を重ね、文章を練り上げていった経緯が判る貴重な資料である。この草本二通と自筆本との異同については、すでに綿密な分析が報告されているが、ここでは、その成果に依拠しつつ、円珍入唐の動機についてさらに探ってみたい。

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四、第一草本と第二草本、清書本の異同

第一草本の初稿段階では、入唐へと至る経緯は次の通りである。

   爰に同学等と共に至再至三、求法の事を議し、終に七年十一月
七日を以て、自ら願文を修し、比叡明神廟に詣で入唐して法を
学ぶの願いを祷祈す、彼のこと従り已後、便宜を候ひ覓めしも、
未だ其主に会はず

この本文に円珍自らが添削して

  天台山図を披く毎に、恒に久しく華頂・石梁の形勝を瞻るも、
未だ好時に遇はず、恒に久しく以て思ひをば存す

と書き入れている。この書き入れ文が基本的に再稿以降では生かされ、初稿の本文はすべて削除され、

  天台山図を披く毎に、恒に華頂・石橋の形勝を瞻るも、未だ
良縁に遇はず、久しく以て思ひをば存す

として「太政官給公験牒」に定着している。

初稿の本文については、先ず門弟が草稿を書き上げ、そこに円珍が添削しており、この部分には円珍が貞観五年の時点から入唐前の自己を回想しつつ、かつ自らの業績を公的に認めてもらうことを念頭において筆を入れたはずである。

初稿段階では、当時は「其主」に会わず、入唐への思いが実現しなかったという本文であったが、これに円珍自らが訂正を施し、天台山図を見るたびに天台山への思慕の念が高まり、いつか必ず行きたいものだと思っていたが、まだ当時は「好時」あるいは「良縁」に恵まれず願いが果たせなかった、と大きく変化している。もっとも最終的に削除されたとはいえ、「爰同学等」以下の部分は、初稿を添削した段階では抹消されておらず、円珍自身も初稿段階では生かすつもりがあったのかも知れない。たとえ初稿を門弟が書いたとしても願文の作成年月日まで明記していることからも何らかの資料が手元にあったと推測され、入唐について同学の者たちに相談を重ね、ついに願文を作成して比叡明神へ参詣したという記述は、おそらく事実であったと思われる(23)。また、再稿以降の天台山図を見て入唐への思いが高まったいう記述も『円珍伝』の「西唐遊学」に通じるものがあり、やはり事実であったと想定できるであろう。従って、いずれの記事も実際に円珍が入唐までに体験してきた事実であったと考えられ、初稿から再稿以降の変更は、伝法の公験を申請するための公的な文書であるが故に円珍自らが記載する記事を慎重に選択した結果であると考えられる。

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第一章 円珍、入唐への歩み

五、初稿を書き換えた理由

この変更について、佐伯有清氏は、「未会其主」に着目され、「其主」を「主として良房・良相のごとき後援者とみなしてよい」とされ、「削除したのは、それが書かれた貞観五年の段階で、良房・良相にたいする遠慮の気持ちが働いたからであろう」とされている(24)。たしかに円珍の入唐は、藤原良房、良相兄弟の存在なくしては実現しなかったことは、多くの先学の指摘の通りである。しかし、この文章は、初稿では「未会其主」に続いて「遂遇仁寿至聖享国」とあり、再稿以降も「爰に田邑の聖上(文徳天皇)、国を享くるに至り、伏して特に恩許を賜り、界を出づることを蒙る」となっており、「其主」は、もちろん文徳天皇を指している。たしかに公的な性格をもった文書として、あくまでも文徳天皇の勅許によって入唐を果たせたことを強調しつつ、実質的には藤原良房、良相兄弟への配慮も働いたことと思われるが、再稿以降においても「好時に遇はず」あるいは「良縁に遇はず」としているのだから、やはり遠慮をするなら、この語句も別の表現に変更されたのではなかろうか。そこで着目すべきは、「毎披天台山図」以下の添削文が、天長十年(八三三)に師僧義真を亡くした際の心情を記述した「師主の早く壑舟に徒りたまへるに遭ひ、鑽仰する地無く、犢の母を思うが如く、愁悶の至り、日に在て夜の若し」という部分を抹消して、その横に書き入れられている点である。やはり貞観五年時の円珍としては、天長十年(八三三)の義真没後の延暦寺の複雑な情勢をふまえ(25)、また当時は座主として存命していた円仁をはじめとする門弟たちのことを配慮し、他に誤解を招かないよう義真入滅に対する円珍の心情と併せて初稿を全面的に書き改めたのであろう。即ち、本奏状における円珍の添削の姿勢は、奏状という文書の性格上、第一に①入唐求法の成果を強調し、②入唐へと至る経緯については天台山への思慕の一点に絞り、③やはり初稿の「随分苦切して真言・止観の宗を習学す」という表現を「式に依りて一紀棲山し遮那・止観の宗を習学す」と書き改めているように情緒的ともとれる曖昧な表現を避けて事実を的確に記したことが認められるであろう。

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【註】
(1) 『田氏家集』(『群書類従』第九輯所収)。
(2) 小島憲之監修『田氏家集注』巻之上(和泉書院、一九九一年)三木雅博訳注、中村璋八・島田伸一郎『田氏家集全釈』(汲古書院、一九九三年)。
(3) 『智証大師全集』下巻所収(園城寺、一九一八年)。
(4) 『園城寺文書』第一巻(講談社、一九九八年)。
(5) 佐伯有清『円珍』人物叢書(吉川弘文館、一九九〇年)の巻末には詳細な参考文献が付されている。主なものを挙げると『園城寺之研究』(星野書店、昭和六年)、小野勝年『入唐求法行歴の研究』智証大師円珍篇(法蔵館、一九八二年)、佐伯有清『智証大師伝の研究』(吉川弘文館、一九八九年)、小山田和夫『智証大師円珍の研究』(吉川弘文館、平成二年)、『智証大師研究』(同朋舎、一九八九年)などがある。
(6) 佐伯有清『智証大師伝の研究』一九三頁。
(7) 円珍と文人との交流については、新井栄蔵・後藤昭雄編『叡山をめぐる人びと』(世界思想社、一九九三年)、後藤昭雄『平安朝文人志』(吉川弘文館、一九九三年)、同氏『天台仏教と平安朝文人』(吉川弘文館、二〇〇二年)。
(8) 「真言学頭補任状」『園城寺文書』第一巻所収【五】。
(9) 佐伯有清『円珍』二六頁並びに六五頁。
(10) 菅原信海『山王神道の研究』(春秋社、一九九二年)並びに同氏「智証大師円珍の山王信仰」(前掲『智証大師研究』所収)。
(11) 菅原信海前掲書五五頁。
(12) 佐伯有清前掲書三八頁以下。
(13) 『園城寺文書』第一巻所収【六六】【六七】。
(14) 『園城寺文書』第一巻所収【五三ー六】。
(15) 尊通撰『智証大師年譜』森江書店、一八八〇年。
(16) 敬光編『唐房行履録』(『大日本仏教全書』第七二巻所収)。
(17) 『園城寺文書』第一巻所収【四三】(先本)・【四四】(後本)。
(18) 小山田和夫『智証大師円珍の研究』一八三頁。
(19) 所功「『円珍和尚伝』の素材と構成」(日本仏教宗史論集『伝教大師と天台宗』所収、吉川弘文館、一九八五年)。
(20) 佐伯有清前掲書三六頁。
(21) 佐伯有清前掲書一五頁。
(22) 園城寺編『秘仏金色不動明王画像』朝日新聞社、二〇〇一年。
(23) 佐伯有清前掲書二〇頁以下。
(24) 佐伯有清前掲書二八頁。
(25) 小山田前掲書五三頁以下。
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智証大師円珍の入唐求法にまつわる若干の問題(後編)

第二章 円珍の入唐前に披見した「天台山図」

一、『天台霊応図本伝集』と孫綽「遊天台山賦」

ここでは、円珍が「毎披天台山図、恒瞻華頂石橋之形勝」して入唐求法への思いを募らせたとされる「天台山図」について検討したい。即ち、奏状の書かれた貞観五年、文脈からすれば円珍入唐の仁寿元年以前に日本に将来されており、円珍が比叡山で実見できた「天台山図」とは、具体的に何を指すのであろうか。

先ずは最澄将来目録「台州録」記載の「天台山智者大師霊応図一張」、「南岳并天台山記五紙」など天台山関係のもの、また、これに関連する『天台霊応図本伝集』(以下『本伝集』という)あたりが考えられる[26]

「天台山智者大師霊応図」は、元慶九年(八五五)の安然『諸阿闍梨真言密教部類総録』(八家秘録)の記載を最後に失われたと考えられている。この図について、清田寂天師は、「縦長九尺の画面に横書きの絵画六紙を上下六段に張り付け、それぞれに智者大師の天台山における「霊応」の場面を描いた一枚の画図であったものか」と推測され、その上で図が失われた後に宗祖親撰として「全く別の形態と名称とを取って再び世に出現することとなった」のが『本伝集』であると断じられている。[27]

また、「南岳并天台山記」についても撰者や内容を伝える記事もなく、早くに散逸し、書名のみが伝わるだけである[28]。尚、台州録の作成は延暦二十四年(八〇五)であり、後述の徐霊府「天台山記」の脱稿に先行しており、本書は徐霊府の「天台山記」とは別本と考えられる。

また、最澄の「台州録」には、李撰「南岳記一巻」三紙、李撰「天台山国清寺碑一巻」七紙が記載されている。薄井俊二氏によると、撰者の李は、李善の父の李北海(六七五〜七四七年)が有力とされ、彼の後世の伝記資料には「南岳記」の記録はないものの、「嵩岳寺碑」、「五台山清涼寺碑」や「国清寺碑」など多くの碑文を著したとされている。この「国清寺碑」が最澄の将来した「天台山国清寺碑一巻」に相当すると推測され、「南岳并天台山記」と李との親近性を示唆するものと指摘されている[29]

また、「越州録」には会稽神述「唐仏隴故荊渓大師讃一巻」が将来されているが、この撰者の神(七一〇〜七八八年)は、越州の焦山に大暦寺を創建した江南仏教界の重鎮で、天台山に関する地誌として「天台山記」あるいは「天台山図」があり、関会稽神連が考えられるが、本書は、日本に将来された形跡はなく、『天台山方外志』等に逸文が残るのみで、万暦年間頃には既に散逸していたとされている[30]

さて、『本伝集』は、序に「今図像者、天台智者霊応之図也、模国清蔵本、写貞元仲冬」とある通り、天台智者大師智(五三八〜五九七年)の伝記を絵画化した「天台霊応図」に付された解説書であったと考えられている[31]。もとは十巻であった伝えるが、現行本は二巻のみである。第一巻には、孫綽「遊天山山賦」と潅頂撰「天台山国清寺智者大師別伝」が収載されている。

東晋の著名な文人孫興公こと孫綽(三一四〜三七一年)の「遊天台山賦」は、『文選』に収めれていることで知られる。[32]「天台山は蓋し山嶽の神秀なる者なり(中略)陸に登れば則ち四明天台有り、皆玄聖の遊化する所、霊仙の窟宅する所なり」で始まる本文には、「故に事、常篇に絶え、名、奇紀に標せり、然れども図像の興ること、豈虚しからんや」と天台山の図像のことを記している。そもそも六臣注には、李周翰の注に『晋書』を引用して、孫綽は永嘉太守となった時に天台山を図に書かせ、それを見て賦を作ったと経緯を注しており、また李善注にも一箇所だけ「天台山図」からの引用がある[33]

そして、『本伝集』に収められた「遊天台山賦」は、注釈付きのもので、「文選李善注六十巻本の巻十一所載からの抄写と認められる」とされるが[34]、池霊梅氏によると『本伝集』所収の「遊天台山賦」は、現行本と同系統の六十巻本『文選』から摘出したものではなく、「『文選』の本文、及びそれに対する李善注の、現在では最早見ることのできない古い形態を留めている、という可能性も浮上してくる」とされ[35]、『本伝集』は『文選』とは別に天台においては宗祖ゆかりの書として珍重され、写本がつくられ、今日まで伝えられることになったという。

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二、徐霊府『天台山記』と円珍将来の「天台山小録」

貞観五年の奏状の初稿を検討された佐伯有清氏は、天台山を訪れたときの叙述が、徐霊符の『天台山記』に類似していると指摘されている[36]。しかし、徐霊府の『天台山記』については、薄井俊二氏による一連の論考に詳しいが[37]、円珍入唐以前には日本に将来された形跡がなく、むしろ円珍が初めて将来したものであるという。

撰者の徐霊府は、黙希子と号す道士で、司馬承禎の孫弟子に当たる田虚応の弟子。生没年は不明ながら八〇四年に南嶽衡山で修業を始め、八一五年に田虚応と共に天台山に移り、八二五年に『天台山記』を撰述した。この本は、中国本土では散逸し、日本に将来されて残されたという。現存する国立国会図書館所蔵の写本が唯一の根本資料となっている[38]

ところで、園城寺に伝来する円珍の将来目録は、次の五種である。
(一)開元寺求法目録 円珍加筆、八五三年九月二十一日
(二)福州温州台州求法目録 円珍自筆、八五四年九月二日
(三)青龍寺求法目録 巻末法全加筆証明、八五五年十一月十五日
(四)国清寺求法目録 円珍加筆、八五七年十月日
(五)国清寺外諸寺求法総目録 八五八年五月十五日

そして、(二)・(四)・(五)には「天台山小録一巻」の記載がある[39]。尚、「福州温州台州求法目録」には「天台山小録一巻」の下に「或題国清霊聖伝」との円珍の自注が入っている。このうち最後に制作した(五)の総目録は、それまでに制作した四種の目録を取捨選択し、入唐求法の総括としてまとめたものである[40]。従って、「天台山小録」という書物は、円珍が天台山に滞在していた八五三年十二月から翌八五四年九月までの間に国清寺で筆写され[41]、円珍によって最終的に日本にもたらされたことになる。薄井俊二氏によると、徐霊府の「天台山記」のことを中国では「天台小録」、「徐霊府小録」などと異称をもって呼ばれており、円珍が将来した「天台山小録」こそが、徐霊府の「天台山記」に他ならないとされている[42]。つまり、佐伯有清氏が貞観五年の奏状で「おそらく円珍が『天台山記』などによってつづった草案がもとになっているのであろう」との指摘は、徐霊府が「天台山記」を撰述した約三十年後に天台山を訪れた円珍が、国清寺でこの本に出会い、それを書写して日本に持ち帰った、いわば最新の情報を本奏状の文章に反映させたものであると理解できる。

従って、「毎披天台山図、恒瞻華頂石橋之形勝」して入唐求法への思いを募らせた若き円珍が、入唐を果たして天台山を訪れた時、「昔聞今見、宛如符契」と述懐した「天台山図」については、当時の延暦寺にいかなる種類の天台山の「図」が伝存していたか確たる史料がなく、やはり不明としなければならない。、もちろん最澄とは別ルートで将来されたか、あるいは日本で模写された可能性も考慮しなければならない。しかし、少なくとも徐霊府の「天台山記」ではなく、可能性の範囲を絞るとすれば、やはり最澄が将来した「天台山智者大師霊応図」や「南岳并天台山記」など一連の天台山関係の「図」や「書」の可能性が高いのではなかろうか。

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三、円珍の見た天台山の風景

以下では、「天台山図」との関連で、円珍の天台山の記述について気づいたことを述べておきたい。

円珍は、仁寿三年・大中七年(八五三)十二月十三日、国清寺に着いたときの印象を「奏状案」(清書本)並びに「公験」ともに同文で「松林鬱茂して十里路を挟み、h樹、五嶺寺を抱き、雙澗流を合す、(智者、此に因りて呼びて雙渓道場と為す)四絶にして奇を標はす、智者の真容は、禅床に安坐し、普明錫泉は、殿の艮に潺灑す」と記している。『円珍伝』でも「智者因此呼為雙渓道場」の割注部分を省き同文を引用している。また「奏状案」の第一草本、第二草本も「h」を「旗」に、「四絶標奇」を「四絶希世」につくるなど若干の異同はあるもののほぼ同文である。佐伯有清氏指摘の通り、徐霊府の『天台山記』の「国清寺、在縣北十里、皆長松夾道至于寺、寺即、隨煬帝開皇十八年、為智禅師所創也、寺有五嶺…(中略)…
雙澗廻抱天下四絶寺、国清第一絶也、寺上方兜率臺、臺東有石壇、中有泉、昔、普明禅師、持錫杖琢開、名錫杖泉」(国立国会図書館本『天台山記』十三丁裏)に類似している。ことに初稿段階から本文に大きな異同がないだけに、初稿を書いた門弟も『天台山記』を参照していたことになる。

尚、「h樹」が『文選』所収の孫綽『天台山賦』の「h樹として珠を垂る」を典拠としており、また国清寺へと至る十里の路を挟んで松が繁茂していた様子は、『行歴抄』に「得十里之松門」とある通りであるが、この表現についても皮日休(八三〇代〜八八三年)の漢詩「国清寺」の「十里松門国清路、飯猿臺上菩提樹、怪来烟雨落晴天、元是海風吹瀑布」が想起される。[43]いずれにせよ、こうした国清寺の景観が、円珍の眼には「昔聞き、今見るに、宛も符契の如し」と映ったのである。

円珍は、翌大中八年(八五四年)二月、国清寺を発ち禅林寺(銀地道場)へ向かった。その途中で「智者大師留身之墳」を拝している。これは入唐時の日記と考えられる『行歴抄』や『銀地行記』によると二月九日のことで、「心神驚動、感慕非常、即時脱旧衣、着勅賜紫衣」云々とその感激を伝えている。[44]しかし、こうした記事は、『円珍伝』はもとより「奏状案」の初稿段階からも省かれており、所功氏が三善清行が『円珍伝』を書くに際して素材とした文字史料の内、円珍自らが書き遺した日記や著書などの文書の引用はほとんどなく、詔勅や符牒といった当時の公文書が採用されているという『円珍伝』の構造上の特徴を確認できるだけでな[45]、こうした姿勢は、先述の義真入滅の記事を削除したのと同様、奏状を作成する段階ですでに円珍自らの姿勢でもあったことになる。

次に、石象道場を訪れているが、その様子を「奏状案」や「公験」、さらに『円珍伝』では「様図不異真象」と記している。これは、『行歴抄』や『銀地行記』になく、「奏状案」の第一草本を添削する際に円珍自らが加筆したものである。おそらく「奏状案」を作成する段階で円珍の意識の中に何らかの「図」や「真象」のことあって、「毎披天台山図、恒瞻華頂石橋之形勝」と添削した文脈上から書き加えられ、「公験」を全文引用した『円珍伝』にまで残ることになったと考えられる。従って、円珍が入唐前に見ていた「図」には、華頂・石橋だけでなく、当然ながら石象道場も描かれていたことになる。

また、石梁を訪れた際にも、その様子を「橋の様梁の如く、横に深谷に亘る、流れ万丈、其声雷の如し、凡人乍ち見て殆ど精神を失す」と記し、次に白道猷(竺曇猷)の伝説に言及した後で、[46]「奏状案」(清書本)段階で「事具山記、不能委叙」と円珍の加筆がなされている。この「山記」が徐霊府の『天台山記』を指すとは即断できないが、[47]やはり円珍は、奏状作成について入念に推敲を重ね、最終段階の清書本まで自ら筆を入れて慎重を期していたことがわかる。

さらに同年二月十八日、華頂峰に登り、智者大師の「降魔道場」や定光の「招手之石」を拝している。ここで特筆されるのは、「奏状案」第二草本で「苦竹黔、茶樹結林、甘泉横流、人物棲息」が加筆され、さらに清書本からは「招手之石見在、定光之迹恒新、苦竹、茶樹成林、林辺亭子、曰倒景亭、甘泉横流、人物棲息」となって『円珍伝』でもこの文が定着していることである。定光の「招手之石」の件を除き、華頂峰に「苦竹、茶樹成林」し、林辺の倒景亭に「甘泉横流、人物棲息」す、という情景は、徐霊府『天台山記』など先行著述にも見当たらない表現であり、おそらく「奏状案」を作成するに際し、円珍が実見した様を想起して書き加えたと考えられる。[48]ここで注目されるのは、苦竹のほかに茶樹に言及している点である。円珍が入唐中に国清寺や禅林寺などで茶を喫したことは記録に散見しており、喫茶の風には親しんでいたことがわかる。円珍は、帰朝後も入唐中に滞在した寺の僧や世話になった人々と文通を交わしているが、その一通に台州開元寺の常雅からの尺牘があり、そこには円珍に「天台南山角子茶壱、又生黄角子弐」を謹上したと記されている。[49]唐代の茶の産地を記録した著名な陸羽(七三三〜八〇四年)の『茶経』「八之出」には、天台県の茶は淅東の台州始豊県の赤城として記載されているだけで、管見では「天台南山角子茶」についてふれた論考はない。[50]九世紀において、おそらく天台山の周辺で「天台南山角子茶」なる茶が生産されており、それが日本にも送られていたという事実は、円珍が実見した「茶樹成林」をなしていた華頂峰の景観とともに喫茶文化史上からも特筆されるべき史料と考えられる。

従って、貞観八年五月二十九日付「太政官給公験牒」や『円珍伝』が全面的に依拠した貞観五年の奏状は、円珍の入唐行歴を知る根本史料であると同時に、円珍自らが徐霊府『天台山記』など入唐中に求得した文献類を参照しつつ自らが実見したことや感想なども取り入れて書き上げたものといえる。その執筆姿勢は、自分を取りまく延暦寺の情勢を勘案しつつ、慎重に内容を選択し、情緒的表現を控え、入念な校正と充分な配慮を払って成文されたものである。また、『円珍伝』は、撰者の三善清行が、本奏状作成時の円珍の姿勢を理解し、『円珍伝』のみが伝える記事についても弟子たちが提供した資料を取捨選択した上で周到に筆を進めたもので、それは所功氏が推測されたように『円珍伝』に「義真や園城寺関係の記事が少ないのは、撰者清行が、円珍の遺志を生かすべく、遺弟子達の用意した素材の中から、円仁門下を刺激するような事項を省いてしまった」[51]という執筆姿勢にあったと考えられる。

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おわりに

本稿では、貞観五年の「円珍請伝法公験奏状案」の作成過程に着目し、円珍の入唐への経緯、さらに天台山巡拝の記述を中心に円珍が自らの体験を踏まえ、入唐中に求得した徐霊府『天台山記』などの文献を活用し、入念に執筆した姿勢について述べてきた。もとより不十分なものではあるが、本奏状をはじめ円珍の入唐関係の資料には、従来取り上げられることのなかった喫茶に関する記述なども含まれており、今後はより広い視野から読み直すことにより豊富な情報が取り出せるように思われる。

(天台寺門宗教学部長・総本山三井寺執事長)

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【註】
[26]『伝教大師全集』巻四所収。
[27]清田寂天「天台霊応図本伝集真偽考」(『叡山学院研究紀要』第二三号、二〇〇一年)。
[28]薄井俊二「天台山をめぐる古文献逸文輯考」(『中国文化』第六〇号、二〇〇二年)。
[29]薄井俊二前掲論文。
[30]薄井俊二前掲論文。
[31]池霊梅「『天台霊応図本伝集』所収之李善註「遊天台山賦」」(『成文宗教與文化学報』第四期、二〇〇四年)。
[32]『文選』との関係では『円珍伝』「年十歳にして毛詩・論語・漢書・文選を読む、一度閲習する所即ち以て誦挙す」の記事が想起される。
[33]「四庫全書」所収『六臣注文選』、李善注の「天台山図」からの引用は「赤城山天台之南門也、瀑布山天台之南西峯、水従南嶽懸注望之如曳布、建標立物以為之表識也」。
[34]清田寂天前掲論文。
[35]池霊梅前掲論文。
[36]佐伯有清前掲書八七頁。
[37]薄井俊二前掲論文、並びに同氏「徐霊府「天台山記」の研究(その一)(『埼玉大学紀要教育学部』第五十一巻第一号、二〇〇二年)、同氏「天台山記の流伝」(『日本中国学会報』第五十五集、二〇〇三年)。その他、国立国会図書館蔵「天台山記」については、同氏の下記の論考に詳しい。「徐霊府「天台山記」の研究(その二)(『埼玉大学紀要教育学部』第五十一巻第二号、二〇〇二年)、「国立国会図書館蔵「天台山記」について(『汲古』第四一号、二〇〇二年)、「再び国立国会図書館蔵「天台山記」について(『汲古』第四四号、二〇〇三年)。
[38]薄井俊二前掲諸論文によると、円珍によって将来された徐霊府「天台山記」は、写本が作られ延暦寺の経蔵に収蔵されていた。その後、寺門派の成尋が書写して入宋時に携行したりした。現存する国立国会図書館所蔵の写本(平安時代後期、二五・五×一五・五センチ、重要文化財)は、五大院安然が関わった写本が伝わり三千院円融房の所蔵を経て、晩年に園城寺の僧となった町田久成(号石谷、一八三八〜一八九七年)の架蔵となり、これが楊守敬によって『古逸叢書』に模刻され、その後に帝室図書館の所蔵となり、現在に至っている。
[39]『園城寺文書』第一巻所収【二二】【二三】【二四】【二八】【二九】。
[40]石田尚豊「円珍将来目録と録外について」(天台寺門宗篇『智証大師研究』所収、同朋舎、一九八九年)。
[41]「福州温州台州求法目録」には、「已上於天台山国清寺写取」とある。
[42]薄井俊二前掲諸論文。
[43]『天台山方外志要』所収、天台山国清講寺、二〇〇七年。
[44]『寺門伝記補録』巻十二(『大日本仏教全書』第八六巻所収)。
[45]所功前掲論文。
[46]白道猷については宮川尚志「天台大師以前の天台山」(『伝教大師研究』所収、早稲田大学出版部、一九七三年)参照。
[47]徐霊府『天台山記』には「水声崩落、時有過者、目眩心悸」とある。
[48]『寺門伝記補録』巻十二所収の『向花頂記』では「南木廻生、奇樹、苦竹行倒」、『在唐日録』では「秀木廻生、奇樹、苦竹行倒となっている。
[49]国宝・智証大師関係文書典籍「唐人送別詩並びに尺牘」二巻の内、年未詳五月十九日「常雅尺牘」(『園城寺文書』第一巻所収【二〇ー六】)。
[50]現在、天台華頂の茶は「雲霧茶」として知られている。『茶経』については布目潮『茶経詳解』(淡交社、二〇〇一年)。
[51]所功前掲論文。

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