智証大師年譜
年 次
西 暦
年 齢
事 項
典 拠
参 考 事 項
弘仁5年 814 1 3/25 讃岐の国那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵寺町)に生まれる。
俗名は因支音広雄。父は宅成、母は空海の姪で佐伯直氏。
『円珍伝』  
弘仁12年 821 8 この年、「因果経』を読み、父の宅成を驚嘆させる。 『円珍伝』  
弘仁14年 823 10 この年、『毛詩』、『論語』、『漢書』、『文選』などを読み暗誦する。 『円珍伝』  
天長4年 827 14 郷里を発つて、平安京に入る 『円珍伝』  
天長5年 828   叔父の僧仁徳(宅麻呂)にともなわれて、初めて比叡山に登る。
『円珍伝』仁徳、非凡な円珍を義真の門に入れる。以後、義真から
『法華経』、『金光明経』、『大毘盧遮那経』をはじめ、天台宗の章疏を学ぶ。
『円珍伝』  
天長10年 833 20 3/25 年分試を奉じ、得度して沙弥となる。 度縁(19歳) 3月、 仁明天皇即位
4/15 菩薩大戒を受け、僧となる。以後、12年間の籠山に入る。 『円珍伝』 7月、 承和の変
承和4年 837 24 7/22 伝灯住位 位記(23歳)  
承和5年 838 25 石龕で坐禅をしていた時、金色の不動明王を感見する。   6月、円仁入唐
承和9年 842 29 5/15 徳円から三種悉地法を受ける。 徳円付嘱
円印信
7月、承和の変
承和10年 843 30 7/5 伝灯満位を授けられる。 位記(31歳)  
承和12年 845 32 棲山一紀の業を終わる。 『円珍伝』(11年)  
承和13年 846 33 7/27 衆議によって真言学頭となる。 補任状(41歳)
 
12/26 伝灯法師位を授けられる。 位記(36歳)
承和14年 847 34 1/ 大極殿吉祥会の聴衆となり、法相宗の碩徳明詮と論議する弁論のするどさに感服した春澄善縄から書状を受ける。 『円珍伝』 9月、円仁帰朝
2/ 定心院十禅師となる。 『円珍伝』
承和15年
(嘉祥元年)
848 35 3/ 唐から帰国した円仁、入京したのち、比叡山に帰る。円仁が唐から将来した諸尊の曼荼羅を礼拝し、真言の儀軌を見た延暦寺の僧徒のなかに円珍も加わっていたであろう。これ以後、円仁から大日如来胎蔵尊法を学び、無所不至印を授けられる。   正月、藤原良房、
右大臣となる
6月、嘉祥と改元
嘉祥3年 850 37 夢に山王明神があらわれ入唐求法をすすめられたという。 『円珍伝』 3月、 仁明天皇薨去
4月、 文徳天皇即位
3/2 内供奉持念禅師に任じられる。 治部省牒(38歳)
6/16 伝灯大法師位を授けられる。 位記(40歳)
嘉祥4年 851 38 ふたたび夢に山王明神があらわれ入唐求法のために身命を忘れよと励まし、かならず冥加があろうと告げたという。 『円珍伝』 4/28、仁寿と改元
6月、
伯父の海印寺道
雄入滅
3/ このころ右大臣藤原良房、およびその弟権中納言良相の支援によって入唐求法が決定さる。あわせて内供奉十禅師に補任される。
4/15 大宰府に向かうため京を辞す。
海印寺に立ち寄り、母方の伯父道雄に会う。
『円珍伝』
5/24 太宰府に着き、城山の四王院に逗留する。 『円珍伝』
仁寿2年 852 39 1/1 1日から帰国する日まで沙弥二人を城山の四王院に居住させて、毎日『法華経』、『金剛般若経』各一巻、『金剛寿命経』五巻を読ましめ、また『不動尊真言』、『延命真言』各三百遍を唱えさせる 祈祷巻数写  
4/13 豊前国香春神社、筑前の国竈門神社、同国住吉神社、同国香椎名神にたいして国家のために『法華経』、『仁王経』、『大毘盧遮那真言』、『金剛頂真言』を転読する。 祈祷転経牒状写
城山の四王院において『大日経指帰』を撰述する  
12/14 文徳天皇、皇太子惟仁親王、右大臣良房らのために『不動呪』千遍などを念誦する。 祈祷巻数写
仁寿3年
大中7年
853 40 2/11 11日付の「大宰府公験」を得る。 太宰府公験
(40歳)
 
7/1 1日付の「福州公験」を発給される。
円珍の従者は、僧豊智、沙弥閑静、訳語丁満、物忠宗、経生的良、伯阿古満、大全吉ら7人。
福州公験(41歳)
7/16 16日、欽良暉・王超・李延孝らの船に乗り値嘉島に着き、鳴浦(長崎県南松浦郡奈留町)に停泊する。 『円珍伝』
8/9 9日に出帆渡海。 『円珍伝』
8/13 13日、高山を望見し、翌日、琉球国(台湾)に漂着。 『円珍伝』
8/15 15日、唐の福州連江県に安着する。 『円珍伝』
8/17 17日、福州城に到着、21日、福州開元寺に宿泊する。
以後、一カ月の滞在中、36巻の経論・章疏及び図像・碑記などを書
写し、寺主の恵灌から空海の安否をたずねられる。
また、三蔵般若怛羅から『悉曇章』を学ぶ。
『円珍伝』
9/14 福州都督府より「公験」を下付される。 福州公験(41歳)
9/20 福州開元寺を出発し北へ向かう。 『円珍伝』
9/21 21日、『開元寺求得経疏目録』を作成。 開元寺求法目録
10/ 中旬、温州に入る。 『円珍伝』
10/ 10月、温州横陽県に到着。  
10/26 26日、温州横陽県丞の許から「公験」を受ける。 台州温州公験2
10/29 温州安固県から「公験」を下付される。 台州温州公験3
10/ 月末ごろ温州永嘉郡に至り、温州開元寺に宿泊する。滞在数日の間、開元寺の宗本らから『四分律開宗記』などの経疏を贈られる。  
11/6 温州永嘉県から「公験」を下付される。 台州温州公験4
11/23 11月、台州に入り、黄巖県から「公験」を下付される。 台州温州公験5
11/26 26日、台州開元寺に至る。
同寺の知建が師僧義真と同時に国清寺で受戒したことを聞く。
 
12/1 台州臨海県に至り、開元寺で知建に会う。 『円珍伝』
12/3 12月、台州から「公験」を受ける。 台州温州公験1
台州臨海県からも「公験」が交付され、台州刺史の李肇と開元寺で面会。知建から『因明論疏』などを贈られる。 台州温州公験6
12/13 13日、天台山国清寺に着く。 『円珍伝』
12/14 14日、留学僧・円載、越州から国清寺に来て、久方ぶりに会う。以後、円載との確執はじまる。  
12/15 たずさえてきた伝燈大法師位を授ける勅牒を円載に手渡す  
仁寿4年
(斉衡元年)
大中8年
854 41 2/ 2月、円載、越州の県に帰る。    
2/7 7日、国清寺の西院で、『福州温州台州求法目録』を作成する。
2/9 9日、禅林寺へ行く。以後、禅林寺に滞在して天台山を巡礼する。
4/ 4月、国清寺にもどって、湛然の『止観輔行捜要記』を勘定し、同寺の僧侶から借りた経典などを書写する。 4月、円仁天台座主
8/ 8月、清観から「釈迦牟尼脚迹写真」(「仏足跡図」)を寄捨される。  
9/2 9月、『日本国求法僧円珍目録』を作成する。 福州温州
台州目録
9/7 7日、国清寺を発ち、越州へ向かう。  
9/2 2日、越州の開元寺に着き、翌日から良の講説を聴講する
10・11/ 10〜11月、この間、従僧豊智とともに「胎蔵旧図様」を描く。 11/30、斉衡と改元
斉衡2年
大中9年
855 42 1/ 正月、開元寺の良からその著『法華文句義科』を借りて
書写する。
過所(43歳) 2/14、父・宅成没
(『金倉寺縁起』)
2/ 2月、『摩訶止観科節』一巻を著わす。
このころ良に「決答」を求め、示教を得る。
2/ この月(斉衡2年2月)、父宅成没すると伝える。
3/19 3月、越州都督府から「過所」を下付され、長安へ向かう。
4/ 4月、蘇州に着き、病気に陥り、徐直(徐公直)の家で療養する。徐一家の安泰を祈願する。この月、円載、あとから来る。 青龍寺求法目録
4/25 25日、徐直の家を発つて長安へ向かう。
5/ 5月、洛陽に着く。
5/15 15日、陜州を経て潼関に至る。
この時、従僧豊智、名を智聡と改める。
5/21 21日、長安に到着、春明門外の高家店に宿る。
5/25 25日、長安城一に入った訳語丁満、遇然に青龍寺の法全に会う。
6/ 6月、青龍寺に行き、以後、経典の借写、受法につとめる。
6/8 8日、円載の宿舎に行き、田口円覚に会う。
7/ 7月、円覚の世話で龍興寺浄土院の雲居房に宿泊することになる。
8/ 8月、法全のもとでの受法に励み、勉学に精励する。
9/ 9月、法全から船蔵界の印契を授けられる。
10/ 10月、金剛界曼荼羅道場において法全から五智水の潅頂を
受ける。
法全のもとでの修学の間、法全から円載の「悪業」を聞く。
10/ この月、龍興寺において御願の大曼荼羅像を画工の慶に図絵させる。
11/ 11月、法全からの伝法潅頂のすべてが終り、十千文を青龍寺に寄捨して感謝の意を表する。以後、長安城内の諸寺を巡礼する。
11/15 15日、『青龍寺求法目録』を作成する。
この日、「尚書省司門過所」を下付される。 過所(43歳)
11/20 20日、法全から『阿闍梨大曼荼羅潅頂儀式』一巻を別離記念として贈られる。
11/27 27日、円覚とともに長安を発つ。
12/ 12月、蒲関を経て洛陽に至る。城内の新羅王子宅に宿泊する。
斉衡3年
大中10年
856 43 1/1 正月1日に光定が懐中から円仁は二人の年分度者のことを取り扱えなどと書いた文書を取り出した夢を見る。さらに困窮した豊智(智聡)、および延福(的良か)が食物を乞い、それを拒絶した夢を見る。    
1/ この月から『大日経義釈』の校勘に精を出す。
1/13 13日、円覚とともに洛陽城を出て、龍門に行き、西岡の金剛智の墓に参詣し、白居易の墳墓を望見する。
1/15 15日、洛陽を出発する。
4/ 4月、蘇州の徐直の家で『大日経義釈』の校勘を終える。
5/10 5月、夢に藤原良房があらわれ、円仁を天台座主にしたいなどと語ったという。また良房は、二個の鏤金の花瓶を持ち出して、この花瓶が安定しないので困惑している夢を見る。さらに良房が普賢延命像を描かせ、自宅の持念道場に掲げた夢を見る。 感夢記
5/17 17日、蘇州の徐直の家を発ち越州へ向かう。  
5/23 23日、越州に着き、開元寺に良を訪ねる。良?から餞別として智者大師の『法華経玄義』一部十巻などあわせて三十五巻の典籍を贈られ、離別を惜しまれる。
6/ 6月、天台台山国清寺にもどる
7/ 7月、国清寺において再び『大日経義釈』の校勘をする。
8/ 8月、円覚、国清寺を発ち、広州へ行く。
9/ 9月、国清寺に日本国大徳僧院を建てる。
10/ 10月、台州へ行き、台州刺史の斐謨に会い厚遇される。
11/ 11月、国清寺において元浩『妙法蓮華経玄義要略』一巻を読む。
12/ 12月、天台と真言の宗旨の深浅をあきらかにする。
斉衡4年
(天安元年)

大中11年
857 44 2/ 2月、再び『妙法蓮華経玄義要略』を読み、「科目」と比勘する。   1月、藤原良房、太政大臣となる
3/ 3月、従僧の閑静と宗(物忠宗)が洛陽の会善寺で具足戒を受ける。
6/ 6月、『阿字秘釈』を略述する。 2/21、天安と改元
8/13 天台山国清寺において『金光明経文句』を勘過。 金光明経文句
8/ 8月、翌月にかけて、『大日経義釈』の校勘をする。  
10/ 10月、『日本国比丘円珍入唐求法目録』を作成する。 国清寺求法目録
  この月、台州刺史の斐謨が任を終えて帰京する。  
天安2年
大中12年
858 45 1/6 天台山国清寺において『縁生論』を勘過。 縁生論  
1/ 正月、厳修睦が台州刺史として着任。
翌月初旬、台州で厳修睦に面会し、台州の開元寺に滞在する。
閏2/ 閏2月、「乞台州公験状」を作成し、「聖教目録」とともに台州刺史に提出、判印を請う。 請台州公験牒案1
台州公験請状
3/5 3月、判印を得られなかったため、さらに「再諸台州公鹸状」を提出する。 請台州公験牒案2
4/1 4/9 4月、三たび「公験」を請うの状を呈上する。
これに応えた厳修睦の批記が下付され礼状を台州刺史に
差しだす。
請台州公験牒案3 請台州公験牒案4
5/15 5月、台州の開元寺から天台山国清寺にもどり、『入唐求法惣目録』を作成する。 国清寺外諸寺求法総目録
6/ 6月、台州管内の海門で李延孝の船に乗る。
同船には・最全・李達・高奉・蔡輔らも乗り組む。
 
6/19 19日、肥前国松浦美旻楽崎に到着。
6/22 22日、博多に安着し、鴻臚館に入る。
8/14 8月、帰朝の上奏にたいし、文徳天皇からの勅を蒙り、
良房からの使者が来て、労迎される。
8月、
文徳天皇薨去

11月、惟仁親王即位、して清和天皇
10/ 10月、城山の四王院に逗留していた円珍のもとに・景全らの書信があって、鴻臚館に招待される。
蔡輔・高奉・李達らから詩を贈られる。
12/ 12月、鴻臚館にいる李達から手紙を受ける。
  この月中旬、太政大臣良房が勅命を受けて、早く入京するようにとの伝達がある。
12/26 26日、長岡の海印寺に着き、伯父道雄の墓に詣でる。
12/27 27日、海印寺を発ち、洛北の出雲寺に泊る。同寺には刑部真鯨が待機し、春日宅成も来る。
天安3年
(貞観元年)
859 46 1/4 正月4日に太政大臣良房、右大臣良相に面会、帰国の挨拶をする。    
1/16 16日、宮中に召され、将来した金剛胎蔵両部の大曼荼羅像を献上する。この時、円仁をはじめ良房・良相らも大曼荼羅像を見る。  
1/19 19日、出雲寺を発ち、延暦寺へ向かう。  
1/20 20日、雨のなかを比叡山に登り、定心院に滞在する。 4/15、貞観と改元
1/23 23日、山王院に帰る。  
3/ 3月、僧侶を比叡神社に遣わして、『金剛般若経』を転読させる。 9月、円仁、園城寺供養会の導師を勤めたと伝える
  この年、三井寺(園城寺)を修造し、将来した経籍を収める堂舎を建て、唐房(唐院)と名づけたと伝える。
貞観2年 860 47 2/ 2月、門弟の円敏・僧命・康済らと新羅神祠を創建したと伝える。    
貞観3年 861 48   この年、故郷の讃岐国那珂郡金倉郷にある道善寺(延長6年に金倉寺と改名)の新堂舎の落慶斎会に招かれたと伝える。 『金倉寺縁起』  
貞観4年 862 49 1/20 正月、三井寺において宗叡に伝法阿闇梨位の潅頂を授ける。    
この年から貞観8年(866)春まで同寺に居住していた。
4/ 4月、珍皇寺で藤原南雄(南雄は『三代実録』によると元慶元年(877)正月、正六位上から従五位下に昇叙、時に散位)のために『法華開題』を撰したという。
9/ 9月、三井寺において『大毘盧遮那経義釈』を校勘する。
10/ 10月、三井寺別当に補任されたという。
貞観5年 863 50 3/7 3月、「請伝法公験奏状」を門弟に執筆させ、自ら削除加筆する。 請伝法公験
奏状案
 
8/ 8月、・景全に託して、唐の智慧輪三蔵に手紙を送る。  
11/13 11月、「請伝法公驗奏状」を清書し、太政官に提出する。 請伝法公験
奏状案
貞観6年 864 51 7/ 7月、仁寿殿に大悲胎蔵の潅頂壇を設け、
清和天皇に潅頂を授ける。
この時の入壇者は太政大臣藤原良房以下、三十余人。
『三代実録』
『円珍伝』
正月、円仁入滅
2月、安恵天台座主
  この年、天皇に『大毘盧遮那経』を講じる。 『高僧伝要文抄』
貞観7年 865 52 3/ 3月、梁殿の北院において『大毘盧遮那経』百字生品以下の釈文を読む。  
貞観8年 866 53 3/ 3月、『添品法華科文』三巻を著わす。   閏3月、応天門の変
この春、冷然院に持念の壇を建て、宝祚を祈り、天皇の生母藤原明子を護持する。 『三代実録』 7月、最澄に伝教大師、
5/29 真言・止観両宗の弘伝を勅許される。(先本) 太政官給公験牒  
5/ 5月、三井寺の主持人となるという。   円仁に慈覚大師の諡号が贈られる
10/ 10月、一族の因支首氏、和気公の氏姓を賜わる。   8月、藤原良房摂政
12/30 12月、先に勅許のあった真言・止観両宗の弘伝についての牒文に一、二字の誤りがあったため、「公験牒」(後本)を再交付される。 太政官給公験牒
円珍加筆文書
 
貞観9年 867 54   この年、・景全が来航し、釈迦から唐の慧能までの影像を寄付し、あわせて唐僧徳円から則夫武后縫繍の極楽浄土変・霊山浄土の織絵などが付送される。    
貞観10年 868 55 6/3 6月、延暦寺座主となる。   4月、安恵入滅
6/ この月、三井寺を伝法潅頂の道場とすることが認可され、唐から将米した経典を同寺の唐院に納めたと伝える。
貞観11年 869 56   この年より仁和元年(885)まで登壇授戒の際に『授菩薩戒儀』の文を用いる。    
貞観12年 870 57   この年、『倶舎頌』を略注したという。    
貞観13年 871 58 9/9 9月、延暦寺の伝法阿闍梨位には学徳があって宗師たるにふさわしい50歳以上の者を任ずるように要請し、これが認可される。 太政官牒案  
貞観14年 872 59 9/ 9月、比叡山に帰る。この帰山は太政大臣藤原良房の薨去に殉じたもの。この年、四天王寺の夏安居の際『最勝王経』の講説を加えることを要請する。   9月、藤原良房没
11月、摂政藤原基経
貞観15年 873 60 4/ 4月、『延暦寺竪義式』を定める。    
4/23 遍照に阿闍梨位を授ける。 授遍照阿闍梨位奏状并官牒案
9/ 9月、遍照に三種悉地法を授ける。  
貞観16年 874 61 11/ 11月、常済・延祚・康済・猷憲らに大法を授け、詮暉・円敏に金剛界を授ける。
貞観17年 875 62 3/ 3月、門弟円敏・良勇らに三井寺の縁起を語ったという。
この年、増命に三部の秘法を授ける。
貞観18年 876 63     11月、清和天皇、
皇太子貞明親王に譲位
貞観19年
(元慶元年)
877 64 正月、陽成天皇即位
4/16、元慶と改元
元慶2年 878 65 1/
正月、このころ円載が溺死したことを聞く。    
4/ 4月、百座仁王会の御前講師となる。
元慶3年 879 66 3/ 3月、叡明に金剛界を授ける。
元慶4年 880 67 12月、右大臣藤原基経、太政大臣となる。
清和太上天皇崩御
元慶5年 881 68 1/ 正月、捨源・良男らに胎蔵界を授ける。
7/ 7月、これより以前、藤原基経が中納言、もしくは大納言に在任していた時に撰述した『比叡山延暦寺元初祖師行業記』に奥書きする。
10/ 10月、捨源ら四人に潅頂を授ける。
この年、唐の州の人李達、張蒙の商船に乗って来航し、一切経の欠本120余巻を送り届ける。
元慶6年 882 69 7/15 7月、唐の智慧輪三蔵に手紙を送り、あわせて門弟の三慧を唐に遣わし、340余巻の経典を捜し写させる。 上智慧輪三蔵書
10/ 10月、延祚・康済・捨源に金剛界を授ける。
12/ 12月、『天台大師画讃註』を作成する。
元慶7年 883 70 3/24 3月、法眼和尚位を授けられる。(3/26付、勅書案) 法眼和尚位
位記案
7/ 7月、真皎・玄超に金剛界を授ける。
この年、唐の栢志貞が来航し、良らの死去した内容の書信を受けとる
元慶8年 884 71 2/ 2月、『授決集』を撰する。 2月、陽成天皇、皇太子時康親王に譲位。光孝天皇即位
4/ 4月、『大日経義釈』第一巻下に、この本、山中において失われたが、嵯峨殿上より探しだされて賜わった由を記す。
5/ 5月、『大日経義釈目録縁起』を記す。
6/ 6月、『大般若経』を抄する。
7/ 7月、真源・玄超に胎蔵界を授け、恵稠・良基・良勇に金剛界を授ける。
元慶9年
(仁和元年)
885 72 4/ 4月、百座仁王会の御前講師となる。   2/21、仁和と改元
この年、増命に三部の潅頂を授ける。
仁和2年 886 73 5/ 5月、『斎日月集』を撰するという。
9/ 9月、『大智度論』を抄する。
10/ 10月、光孝天皇の重病平癒を祈るため紫宸殿において護摩法を修する。
仁和3年 887 74 3/ 3月、かねて奏請していた大毘盧遮那業、および一字頂輪王経業の年分度者二人が延暦寺のために加えられる。 8月、定省親王、皇太子となる。

光孝天皇薨去
宇多天皇即位
秋、『辟支仏義集』を著わす。
仁和4年 888 75 1/ 正月、興福寺の維摩会講師となるのを辞退する。 『円珍伝』  
6/21 6月、『仏説観普賢菩薩行法経文句合記』(『普賢経記』)を撰述し、和気彝範の四十九日の冥福を祈る。 『普賢経記』
10/17 10月、「垂戒三条」を書く。 制誡文 閏11月、阿衡事件
仁和5年
(寛平元年)
889 76 9/ 9月、山王院において『瑜伽供養法次第』に奥書を記す。   4/27、寛平と改元
寛平2年 890 77 12/26 12月、少僧都となる。この月、太政大臣藤原基経の要請で修法し、また字多天皇に一切経の補写について奏請する。この時、円珍病気で起居に不便なため医家に診察を乞うため下山したという。 『円珍伝』 正月、遍照入滅
寛平3年 891 78 5/ 5月、門弟猷憲・康済に三部大法阿闇梨位を授ける。 正月、藤原基経没
2月、蔵人頭菅原道真
10/29 10月29日、病痛なくして入滅する。
延喜2年 902 (11) 10/ 10月、三善清行、『天台宗延暦寺座主円珍伝』を撰述する。
11/ 11月、門弟慈鏡ら『円珍伝』(『家伝』)を国史所に奉進する。
延長5年 927 (37) 12/ 12月、法印大和尚位と智証大師の諡号が贈られる。 諡号勅書 12月、延喜式成る
 
s