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高祖・宗祖・高僧

和讃(天台大師・智証大師・役行者)

智證大師和讃

藤原通憲撰

帰命頂礼前入唐    智證大師贈法印
清和光孝陽成の    三朝明時の国師なり
悉達太子の蹤を追ひ  十九出家したまひて
檀特山の風伝へ    山林苦行十二年
承和五年冬の月    大聖明王感見し
嘉祥三年春の夢    山王渡唐を告給ふ
文徳天皇宣下して   入唐求法許されき
唐の大中七年に    嶺南道に著にけり
天台山に登りては   大師の聖跡礼拝し
清涼山に望みては   文殊の霊地巡礼し
長安洛陽廻りつつ   勝地名跡場を踏み
西天唐土の師に遭ひて 梵文漢語を窮めたり
良?和上の開元寺   一乗心蓮花開け
法全闍梨の青龍寺   五瓶智水雨灑く
南岳天台遺身塔    無畏不空影像院
石像石橋見渡して   銀地金地も修行しき
顕教密教学ぶとて   在唐凡そ六個年
自宗他宗昔なき    経論章疏千余軸
渡唐の風には疏球国  大聖明王化現して
帰朝の波には新羅国  権化の善神影響す
清和天皇元年に    大師帰朝し給ひて
新渡の法門千余軸   敕宣下りて弘まりき
尓時大師奏聞し    三井に唐房建給ふ
百六十年行へる    生身弥勒の附属得つ
園城寺にては敕により 宗叡僧正潅頂し
仁寿殿には詔を承け  王臣入壇始まりき
金光明の斎会には   身子迦稱を拉しぎ
清涼殿の決疑には   護法清弁物とせず
熊野山に攀しとき   道路迷ひて冥知れず
八咫の烏飛来たり   道を示すぞ奇特なり
権現三所の寶前に   一乗八講修せしかば
松蠕扉を押し抜き   神威實に甚だし
財施の幣帛妙の色   醍醐の妙味の希の声
和尚の恩徳淺からず  門弟必ず懌はむ
西山松尾大明神    詞を通じ問ひ答へ
東門中心天王寺    最勝講をぞ始めをく
陽成天皇敬ひて 法眼和尚に叙せしめき
享子天子貴みて    権少僧都に補任す
天台第五の座主として 二十四年戒授け
園城第二の貫主にて  三十三年法弘む
一切経論三箇遍    大乗小乗鏡み懸け
諸尊伝法二百人    三部三密殊瑩く
五百余人髪を剃り   三千余人戒授け
王臣道俗帰敬して   徳行天下に充満てり
千里萬里は掌ろ    三世十方胸にあり
門弟怪しみ問ひしかば 金剛薩?の告と演ぶ
良?の遷化を遠くみて 鐘を鳴して諷誦しき
元璋禅師が去りし日は 声を挙てぞ悲泣する
円載入海せし尅は   涙を流して悲みき
済詮渡唐せし時は   遂すとこそ授けしが
時に此等を聞きし人  驚き怪しみ疑ひき
後の日宋人告けしにぞ 一事も違はず信をとる
寛平三年冬の天    生年七十八にして
十月二十九日にぞ   大涅槃には入給ふ
其時十方世界の    菩薩聖衆室に満ち
天の音楽雲響き    定印結んで滅に入る
円寂の後第二日    三衣の枕を替へしかば
大師頭を擡げしに   門弟涙を流しけり
延長五年冬の季へ   静観僧正奏聞し
天皇敕宣し給ひて   大師号をぞ下されき


帰命頂礼吾(きみょうちょうらいわが) 大師 山王院と申せしは
清和陽成光孝の 三朝明時(さんちょうめいじ)の国師なり
初生(しょせい)の昔を尋れば 姓は讃州綾(あや)の公(きみ)
夢に日輪かがやきて 母胎に託すと見へにける
嵯峨天皇第五のとし暦 三月二十五日にぞ
智勝佛(ちしょうぶつ)の声ありて その時誕生御坐(ましま)せり
頂骨尖(するど)に高くして 佛の肉髪(にくげ)に異ならず
重瞳眼(ちょうどうまなこ)に浮ては 威徳の相好具(そなわ)れり
年是五歳なりし時 護法善神現じてぞ
末の弘法の時までも 衛護(えいごう)せんとう告にける
生年八歳なりし時 因果経を乞しにぞ
弘法大師見そなはし 凡兒(ぼんに)に非(あら)ずと告玉ふ
十五と歳に至るとき 比叡山に攀(よじ)登り
修善(しゅぜん)大師に仕てぞ 経論章疏(しょうしょ)を学しに
大師聡俊霊利にて 日々に学行すすみける
悉陀太子(しったたいし)の蹤を追い 十九出家の玉ひて
檀特山(だんとくせん)の風を承け 籠山(ろうざん)苦行十二年
二十歳に至るとき 円頓具戒(えんどんぐかい)受玉ひ
二十五歳の冬の月 大聖明王影響し
法器を愛すとの玉ひて 我を図せよと告玉ふ
三井一流に相伝ふ 黄不動尊とは此ぞかし
二十七に至るとき 金人(こんじん)再び現じてぞ
密印密軌(みついんみっき)を相授け 口決(くけつ)相伝ましま御坐せり
生年三十二歳にて 一紀籠山行畢(おわ)り
諸州を遍(あまね)く巡歴し 佛刹僧藍(ぶっせつそうらん)開基せり
一時熊野を攀しとき 風雨晦冥程しれず
八咫(やさか)の烏(からす)とび来り 道を示すぞ奇特なる
蓑(みの)を解(と)にもいとま遑なく 一乗八講修せしかば
松蠕(しょうねん)扉を押しひらき神威(しんかん)まこと良にかぎりなし
那智の瀧下(ろうか)に籠ては 千箇日夜苦行せり
神変菩薩のあと蹤をふみ 大峰嶮岨(けんそ)に攀(よじ)登り
葛城(かつらぎ)深遂(しんずい)ふみわけて 三山修行なせしにぞ
千歳(ちとせ)の今に至るまで 修験の行法おこた怠らず
大極殿の斎会(さいえ)には 詞弁最もたえ妙にして
南都の明詮(みょうせん)屈伏し 名誉を朝野にほどこ播せり
金光明(こんこうみょう)の斎会には 身子迦旃(しんじかぜん)をとりひしぎ
清涼殿の決疑には護法 清弁(せいべん)物とせず
西山(にしやま)松尾大明神 詞(ことば)を通(かよわ)し問答(といこた)
東門中心天王寺 最勝講をぞ始めおく
山王數々(しばしば)現じては 渡唐(とうとう)せよと神勅す
文徳天皇叡聞(えいもん)し 求法の願を許されき
年是(としこれ)四十秋のころ 北風(ほくふう)(にわか)に烈(はげし)くて
琉球国に漂へば 金 へさき         
人舳先 に現じてぞ
須臾(しゅゆ)に唐地に着にけり 唐の大中七年に
嶺南道(れいなんどう)にぞ到りける 天台山に登りては
智者の真影(しんよう)礼拝し 金地銀地の道の場(にわ)
石像石鼓(せきぞうせっこ)のもと旧の跡 華頂石橋(しゃくきょう)残りなく
一々巡りて見玉へり 璋観(しょうかん)二師の相愛(あいあい)
一つの房にぞとど止めける 春より夏に到りては
物外(もつげ)法師に随ふて 前代未聞の止観をば
永く未来に伝へける 良?(りょうしょう)和尚の開元寺
一乗心蓮華(はな)開け 法全闍梨(はっせんじゃり)の青龍寺
五瓶(ごびょう)の智水雨(あめ)(そそ)ぐ 大師歓喜に堪(たへ)ずして
寺衆を周(あまね)く供養せり 在唐凡そ六箇年
洛陽長安巡覧し 西 あふ 天
唐土の師に遇て
梵文漢語(ぼんもんかんご)を極めてぞ 顕密二教のこりなく
法具法教相伝(あいつた)へ 自宗他宗昔しなき
経論章疏を渡しける 帰 朝の波には新羅(しんら)
魏々(ぎぎ)たる老翁現じてぞ 和尚の所住に随(したが)ふて
慈尊の出世に至まで 人 とも 法倶に護持せんと
誓ひを為(なし)て隠れにし 天安二年六月に
大師帰朝ありしかば 朝廷盛使を賜りて
苦学の慰問軽からず 清和天皇元年に
新羅山王相倶(あいとも)に 渡る章疏を置べしと
園城寺(おんじょうじ)にぞ将(ひきい)でし 百六十年行(おこな)える
教待和尚(きょうたいおしょう)の附属得(え)つ 大師是を奏問し
三井に唐院建給ふ 同く二年勅を奉(う)
御長(みたけ)を帝(みかど)に等(ひとしう)
新羅( しんら)の御影(みえい)を作てぞ
三井(みい)の北野(ほくや)に置玉(おきたま)ふ 清和天皇勅に依り
宗叡(しゅえい)僧正潅頂す 仁寿殿(にんじゅでん)には詔を奉(う)
王臣入壇始まりき 生年五十一にして
大日経を講ぜしに 王臣聴(ちょう)を聳(そび)ひ出て
発心利益(ほっしんりやく)多かりし 此尊重(よりそんじゅう)他に越て
恒時(こうじ)講義に請(しょう)しける
財施の幣帛(へいはく)妙の色醍醐法味(だいごほうみ)の希(まれ)の声
大師は謙徳なる故に 和       
朝の貴賤而巳(のみ)ならず
遠き唐土の人までも 遺 愛
渇仰(かつごう)厚かりき
簷氏(えんし)は祖像を相贈り 李氏は蔵本寄(よせ)来る
叡山新月冷(ひや)やかに 台教古風清(きよ)しとて
天台山より贈る詩を 菅神(かんじん)深く歎じける
元慶二年夏の月 旱魃(かんばつ)久くなせしかば
天皇勅宣(ちょくせん)下りてぞ 仁寿殿に請雨(しょうう)して
仁王(にんのう)般若を講ぜしに 甘雨(かんう)三日みちみ充満てり
仁和二年冬の月 玉 体不豫(ふよ)の勅を奉け
一宿持念し玉ふに 御悩忽(ごのうたちま)ち燕安(えんあん)
主上讃滞(さんだい)し給ひて 大師の希望(けもう)を問玉ふ
大師もと本より名利をば 毛縄羅絹(もうじゅうらんけん)と見玉へば
菩提の外に求めなく 年度二人を受給ひ
山王明神入唐を 勧めし徳に報ひける
大師は遠識(おんしき)不思議にて 千里万里も掌(たなご)ころ
りょうしょう良?の遷化を遠(とおく)見て 鐘を鳴して諷誦(ふうじゅ)
璋観(しょうかん)二師の去し日は 声を放て悲しみし
円載入海(じゅかい)の其時は 涙を流して相惜み
済詮(さいせん)渡唐をつげ告にしは 遂(とげ)ずとこそのべたも宣給ふ
門人怪み問しかば 金 さった 剛薩垂の告(つげ)とのぶ
時に是等(これら)を聞し人 驚き怪み疑へり
後の日唐人告しにぞ 一 
事も違(たがわ)ず信をとる
寛平二年冬の月 延暦大衆表奏し
宇多天皇勅ありて 少僧都にぞ任じける
同く三年夏の月 生年七十八にして
一期(いちご)の報命この茲の年に 限れる事を知しめし
斎憲(さいけん)二師に伝法の 職位を授け玉ひける
一日徒弟を相集め 滅
後の遺誡(ゆいかい)し給へり
夫(それ)肉身は垢穢(くえ)なれど 常に聖衆を薫染(くんぜん)
汝等慎み荼毘(だび)をなし 其ゆ遺骨(いこつ)を拾(ひろ)ひとり
我形像(ぎょうぞう)に入蔵(いれおさ)め 彼(か)の唐院(とういん)に安置せよ
王法佛法衛護(えいご)して 三会(さんえ)の際に至るべし
汝等是を記憶して 滅後に従事なすべしと
十月二十九日にぞ 天の音楽雲響き
十方聖衆室(しつ)に満ち 異香(いこう)四方に薫(くん)ずれば
大師合掌ましまし御坐て 左右をいつ揖する気色(けしき)あり
如来は法を其身(そのみ)とし 比丘は其慧(そのえ)を命(いのち)とす
法身慧命(えみょう)伝へなば我住世( われじゅうせ)にも異ならず
汝等悲泣すまじとて 最後の教誡し玉ひて
日輪山に入る刻み 定印結で滅に入る
凡そ浄土の行業は 所作の功徳を周し
一期の化縁盡(つき)ぬれば 假(にわか)に涅槃を示しける
円寂の後第二日 三衣の枕を替る時
大師頭(こうべ)を擡(もた)げしに 門弟悲歎に沈みける
凡そ大師は始めより 涅槃の際に至るまで
渉獵(しょうりょう)経典じじ孜々として 游泳禅観こ憔れ勤む
一切経論三箇編 自宗の章疏数百編
頓冩(とんしゃ)の経巻限りなく 著述の章疏計りなし
利物廣済(りもつこうさい)之れ多く 創造伽藍亦多し
叡山第五の座主として 二十四年管領し
園城(おんじょう)初度の長吏(ちょうり)にて 三十三年護持をなす
諸尊伝法二百人手度(つ)の剃髪(ていは)五百人
伝戒僧徒三千人 結縁 得益(とくやく)限りなし
皇臣道俗帰敬(ききょう)して 徳行天下にみちみて充満り
延長五年冬のすえ季 褒賞(ほうしょう)尚もいや弥増り
醍醐天皇勅ありて 智證大師と諡(おくり)なす
帰命稽首(きみょうけいしゅ)智慧金剛(ちえこんごう)
仰げば恩山弥高(いやたか)
伏ては徳海尚深し 言説思慮(ごんぜつしりょ)も及ばれず
滅后千歳(めつごちとせ)の世に出て中間無福(ちゅうげんむふく)の我等をば
智見照明し玉ひて 二求(にぐ)の願ひを満しめむ
一口信誦(いっくしんじゅ)の讃歎(さんたん)も 随喜(ずいき)無上の縁とかや
必ず哀愍納受(あいみんのうじゅ)して 後世(ごせい)の引導(いんどう)なし給へ





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