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星宮智光

宗祖 智証大師の御生涯


宗祖 智証大師の御生涯

智証大師円珍は、字名は遠塵、金剛名は知恵金剛、天台座主第五世、園城寺初代長吏、天台寺門宗の宗祖である。弘仁六年(八一五年)讃岐国那珂郡金倉郷(香川県善通寺市金蔵町)に生まれ、その俗名は和気氏である。生母は弘法大師の姪である。別格本山金倉寺は大師の生誕地であり、その近くには産湯を汲んだという井戸が現在ものこっており、生家の和気家も今日まで相続されている。

大師は八才にて因果経を読み、十才で儒典を読み、はやくもその逸性を発揮している。十四才で都にのぼり、翌年叔父の僧仁徳につれられて比叡山に入り、義真和尚について大乗経典や天台の教巻を学んだ。十九才で官試に及第した後、伝教大師の制定した山家学生式にしたがって十二年間の籠山修行を行った。

承和四年(八三七年)七月二十二日には伝灯住位に補され、同十年七月五日には伝灯満位を受けている。同十三年七月二十二日には叡山大衆の推挙によって真言学頭になる。同年十二月二十二日に伝灯法師位に進む。嘉祥元年(八四八年)春、大師は西の山に隠れんとする日光を一異人から受け、これ引接することを夢見るが、このころより叡山における地位が確立されたようである。同三年三月二日、内供奉禅師に任ぜられ、同六年十六日には伝灯大法位という僧侶としての最高の地位にのぼった。三十七才のときである。すでに、この春に山王明神から夢の中で入唐求法の霊告を受けたので、これを奏上し、直ちに入唐の勅許を得ることができた。

入唐求法の雄途にのぼることになった大師は、仁寿元年(八五一年)四月十五日京都を出発し、五月二十四日九州太宰府に到着したが、便船がなかったので城山の四王院(福岡県大野山)に寄住して便船を待った。同三年七月十六日唐の商人欽良暉の船に乗り、値嘉島(五島)に行き鳴浦に停泊、八月九日いよいよ唐国にむけて出航することができた。京都を出発してから約二年四ヶ月目にようやく出航することができたのである。日本を離れて七日目の八月十五日唐国の福州連江県に到着、翌日無事に上陸した。この日から以後、約六ヵ年にわたる在唐求法の生活に入るのである。

在唐中の求法の具体的な動向を、その順序にしたがって表にまとめてみると、次のようになる。

受法の師
受法の所
受法の内容
天竺摩掲陀国
大那蘭陀寺
三蔵般若
福州・開元寺 梵字悉曇金剛界大悲胎蔵大日仏印。
七倶知曼素室利印法梵夾経等。
僧 存 式 上同 四分律東塔疏法華経疏、華厳、涅槃倶舎等の疎義等。
処士林儒 上同 日本にない法文の書写。
宗 本 温州・開元寺 四文新疏、倶舎論楞伽経疏。
知 建 台州・開元寺 維摩、因明の疏。
物 外 天台山・国清寺 天台経籍三百巻(一説には二百許)余。
良  越州・開元寺 宗旨を講授され旧疑を決す。兼ねて法文を抄す。
法 全 長安・青龍寺 瑜伽宗旨、五大種子や手印を受く。大法灌頂を受学、胎蔵大瑜伽、金剛界灌頂を受く。大瑜伽最上乗教、両部諸尊瑜伽、蘇悉地大法を学受、三昧耶戒、五更両部阿闍梨位灌頂を受く。
智恵輪三蔵 長安・大興善寺 真言秘旨を聞き、新訳秘経を受く。
道 圓 伊水之西・広化寺 三蔵碑

在唐求法の中心は、一つは天台山国清寺での天台経籍の蒐集である。ここで伝教大師の旧蹟止観堂を再建して日本からの留学僧のための用に備えた。もう一つは長安青龍寺における法全からの三部大法の授法である。三井寺唐院灌頂はここに発するわけである。在唐中に蒐集した経論章疏等はすべてで四四一部1000巻に及んだという。求法の実をあげて、大師は唐大中十二年、すなわちわが国天安二年(八五八年)六月八日、唐の商人李延孝の船で唐国を離れ、二十二日には大宰府に帰着することができた。この十二月二十七日京都に帰り、将来した経論を宮中の尚書書に収めた。

帰朝後、大師は比叡山の山王院に住して、所伝の大法や天台真言の章疏を教授し、大日経の研究に従事した。貞観元年(八五九年)には山王、新羅の両明神の霊応を受けて園城寺に至り、ここに唐院を建て、所伝の密教の道場となした。これより園城寺は大師を得て天台別院として面目を一新することになる。

貞観四年(八六三年)正月、園城寺唐院において宗叡に両部大法を授けた。これが三井寺灌頂のはじめである。六年秋勅をうけて宮中仁寿殿で大悲胎蔵灌頂壇を結び、また大大毘盧遮那経一部を講じ、さらに冷然院に住して持念の壇を建て宝祚を祈り、かねて皇太后を護持している。

ついで特筆しなければならないことは、貞観八年(八六六年)五月二十五日、真言止観弘伝官牒を賜わったことである。大師の法華経と大日経の一致の教学が天下に公認されたのである。その勅文の一部には、つぎのようにのべられている。

【聞くがことくんば、真言止観両教の宗は同じく醍醐を号し、ともに探秘と称す。必ずすべからく師資授受し父子相伝すべし。いやしくも機縁なくば遇ひ難く悟り難し。法師は本朝にあって苦しんでこの道を学び、漢家に遊歴してさらに要妙に通ず。奥理を弘宣し、もって国家の城塹となるべきに堪へたり。よろしく陳ぶる所によって所司に下知し、その演説を許す。慧炬を増光するもの、いま宣旨によって、これが公験を与ふ】
この官牒を賜ったことは、大師の生涯におけるもっとも記念すべき栄誉であって、ここにおいて天台寺門宗弘宣の基をえたのである。この日(五月二十九日)は本宗開宗記念日として、一宗あげての祝日としていることは、周知のとおりである。これ以後、大師の活躍は大いに軌道にのったごとくである。貞観十年(八六八年)六月三日には、第五代目の天台座主に任ぜられた。

貞観十四年九月、突然に暇を請うて叡山に帰り、以後朝廷の懇請以外はこれを辞し、叡山を出ることはなくなった。十五年、官符によって、六歌仙のひとりとして高名な僧正遍照に三部大法(金剛界、胎蔵界、蘇悉地の三法)を授け、元慶元年(八七七年)陽成天皇登祚にあたり、宮中において嘉例の百座に仁王般若経を講じたが、とくに勅命をうけて御前の講師となった。

智証大師は帰朝後もいっそう経論の蒐集輸入につとめ、その功績は後世に燦然と輝くものがある。元慶五年(八八一年)唐の商人李達は大師の請により張家の船に付して本朝一切経の欠本百二十余巻を送ってきた。さらに翌年には僧三恵を入唐させ、欠経三百四十余巻を複写させている。翌七年七月には『延暦寺元初祖師行業記』一巻をつくり伝教大師の遺徳をのべた。この年十月には法眼和尚位に叙せられる。

仁和元年(八八五年)天皇践祚にあたり、仁王経を講じ仁寿殿の講主となる。二年の秋、天皇不予のため、山を下りて仁寿殿に侍して加持を行い、平癒した天皇は、その恩賞として叡山地主明神に年分度者二名の増加を勅許した。大師の『垂誡三条』にもみられるように、山王明神への帰依はまことに篤いものがあったのである。仁和四年太政大臣藤原基経により興福寺維摩会講師として再三懇請された。大師の当時の仏教界における重要な位置をうかがい知ることができるのである。

寛平二年(八九〇年)十二月、大師は少僧都として僧網に列せられた。

寛平三年の春、命終の近づいたのを自覚し、門弟に遺誡して書写させた唐本『涅槃経疏』をみずから校正した。十月二九日朝、弟子達にむかい、「如来は慧をもって命となし、此丘は法をもって身となす。法慧いやしくも伝わらば何の死あらんや。汝等よろしくこれを憶うべし。」と遺誡し、日没のころ、手に定印を結び、端座冥目して、仏を念じ、夜半になって袈裟をつけ、口を漱いで、右脇を下に安臥したまま安然として入滅されたのである。行年七十八才であった。延長五年(九二五年)十二月二十七日法印大和尚位を賜り、「智証大師」と勅諡され、その偉大な生涯を讃揚されたのである。その勅文は、大師の功績がいかなるものであったかをよく示している。つぎに、この和文をかかげて、本文の結びとしたい。

勅す。慈雲秀嶺、仰げば則ち彌よ高く、法水の清流は之を酌めば寧ぞ盡きん。故天台座主少僧都圓珍、戒珠塵無く、慧炬照有り。大海を渡りて法を求め、異域にはせて師を尋ね、物を済ふを宗と為し、舟を苦海に泛べ、利他意にあり。斧斤を稠林に加ふ。是を以て朦霧その翳味を歛め、朗月その光明を増し、遺烈永く伝はり、余芳遠く播がる。志節を追憶するに以て褒崇するに足る。よろしく法印大和尚位を贈り、諡して智証大師と号すべし。前件に依りて主者施行すべし。     

延長五年十二月二十七日

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