葛城山経塚巡拝を終えて 井口 梵森
今年、わたくしは葛城二十八宿経塚巡拝の全三コースを無事終了させて頂きました。
所で毎回、こうした機会で不思議に思う事は、新潟の辺境に住み、四十才を過ぎて正統な験門のご縁を頂いたわたくしが、単に自分の凡意一つで神変大菩薩所縁の聖蹟を巡拝しうる結果が生まれるだろうか、という事であります。
生前、三島由紀夫がデザイナーの横尾忠則氏に直接語ったとされる所で、「…人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的なカルマが決定する」ように、二十八宿経塚とわたくしの間もそのような宿世の力が働いているように感じざるを得ないのであります。
さて、本コースでは、友が島の第一経塚〈序品窟〉から始まり、第七経塚〈中津川アラレの宿〉まで巡拝させて頂きましたが、初めて訪れた山中自然の荘厳さに心洗われる心地でございました。
自然の荘厳さ、樹木の枝葉に陽に照らされ、或いは風の囁きに、古代の先達は神仏の姿や声を重ね合わせておられたに違いなく、わたくしもそんな共振が出来たら…と願いながら山道を歩きました。
更に〈顕の峰〉とも称される葛城二十八宿巡拝の特色となりましょうが、要所々々で里の方々にそれぞれ歓待を受け、言葉を交わせるご縁がありました。
特に〈音無しの滝〉から滝畑地区にかけては、先般より産業廃棄物施設の建設をめぐって自然環境保護の観点から行政と地元住民と対立が続いているという経緯で、この運動に霊山の聖性と験門の伝統精神を守らんとするわが総本山三井寺の強力な後押しが加わることで、一層有意義な葛城巡拝となりつつあることも認識致しました。
最終日は中津川行者堂前にて採灯大護摩供の神秘的な白煙と炎に見惚れつつ感謝の祈りを捧げ、その後、西国第三番霊場の粉河寺にも初参拝させて頂きました。
その他、多くの印象に残ったシーンがありますが割愛させて頂くとし、此度個人的に感慨深かった事を一言で要約するとすれば、それは様々な人との出会い、ご縁であります。思いがけず先達様がかけて下さった一言によって、それまで心の何処かでモヤモヤしていた問題が急に見通しが良くなる経験をさせて頂きましたし、また他の先達様の古典研究、歴史学、地理を総合的に遡る事で見えてくるかも知れない日本の〈元型〉についてのお話も貴重な宝物となりました。
葛城二十八宿巡拝での、様々なご縁をわたくしにとってかく吉祥ならしめたのも、高祖神変大菩薩さま、嚢祖智証大師さまの加持力に帰するものと信じ、今後も精進致したいものです。
有り難うございました。 合掌
葛城入峰修行を終えて 坂本 人雄
平成二十七年十月十日〜十月十二日
二十八宿巡峰修行の一年目、第一塚から第八塚の修行ですが、私にとっては今回で皆様に導かれ支えられての満行となりますありがたい修行となりました。
得度してからまだ日が浅く、歴史、思想につきましても無知なる者が千数百年間、苦難の中にも存続してきた修験道の聖域に入らせていただき、勤行しながら歩き通せた事に感謝しつつ行程を振り返ってみたいと思います。
九日
十九時より説明会。説明会に入る前にお集まりされていた皆様方から行程、準備、地域の現状、この時期に行う意味、山岳信仰を生み出す元になった日本人の感性等々について貴重なお話を伺う機会を得ました。
入峰前にいくつかの大切な視点を教えていただくことになり、実際に三日間の道程の中で完璧に準備された計画と背景の様々な関係者の方々のご苦労、ご厚意、地域の方々の存続してきた信仰心の貴さ、現代においての新たな苦難、そして役行者に始まる修験道場としての葛城を舞台に戦乱、法難の大きな傷跡を行く場において出会い気づくことになりました。
十日
四時起床 五時より微妙寺、唐院、金堂、閼伽、熊野神社、行者堂にて勤行、拝礼、長史猊下からお言葉を賜り諸先生方、関係者の皆様方から気持ちよく送り出していただいた、五時半出発。
七時五〇分、加太港あたらしや屋旅館に到着。
この場所は江戸時代以前は干潟であったところで後に埋め立てられ、加太という地名は干潟の潟からきているという。
八時五十五分、友ヶ島に向けて出港、二十分程かけて役行者が葛城修験道二十八宿の第一の宿をおき、行場、史跡の点在する友ヶ島に着岸。
九時二十五分法螺貝の音が鳴り響く中、行道開始。
虎島まで二・七キロ、深蛇池まで一・五キロの道のり。豊かな照葉樹林の中、幅二、三m程の整備された道を黙々と歩き始める。
粟島(淡島)とかつて云われていた神島の劔池に向かって遥拝。
九時五十四分、深蛇池への分かれ道着。
池での勤行は虎島参拝後の帰路に行うことにして島の峰筋を先に進む。
十時十五分、閼伽跡を通過、引き潮で海の中に現われた石の通路を渡る。
濡れた石は、のりがへばり付き滑り易いため出来るだけ乾いた石の上を注意深く歩く。
虎島に十時二十分渡り終える。
小休止、貴重品、必要な物のみを持って海岸沿いの岩場を周りの景観に感動しつつ慎重に歩き始める。
十時四十分、序品窟着。大きな岩が積み重なり人ひとり通れるだけの胎内潜りと呼ばれている狭い岩の隙間を窟中石碑に拝礼し通過、勤行。
再び海岸沿いの岩場を時折這うように身を屈めつつ進む。
友ヶ島に向かう汽船より眺めた大きな岩場が眼前に現われる。
十一時〇五分、岩の裂け目の中の観念窟にて勤行。
すぐ先にある岩の斜面に掘られた五所額を眺めながらやや興奮した心持ちで登り始める
。彫刻された丈許文字に対してそれぞれ安全な場にて勤行。
浅村さんが岩場の上に登りロープを我々の安全確保のためのロープをかけてくださり、いくつかの注意事項のもとに十分程かけて全員、役行者像をお祀りしてある所まで無事登り着く、勤行。
行場を後にし、明治から第二次世界大戦終了にかけて使用されていた砲台跡、兵器庫などの軍事要塞跡を経て十分程で海上の通路のところに出る。
すでに潮が満ち始めており、小さな島の周辺でも海面の高低差による渦が見られる中、滑らないようにゆっくりと対岸に渡る。
十一時五十五分全員渡り終え、二十分程で深蛇池に着く、役行者が神島の劔池にて少彦名神から授けられたと云う神劒で大蛇を封印した池とされている、法華経修行を守護している深沙大王が鎮座。
石の護摩壇の前にて勤行。何か所かマムシ注意の表示板に気づきながらも黙々と隊列の間隔の乱れなく三十分程歩いて港に十二時五十分着。
汽船に乗り込み定員一〇〇人満杯の客を乗せて十三時二十五分出港。
切り立った大きな岩場、辿った道筋を舟よりあらためて眺めつつ二十分程で加太港着。
列を正して五分程歩き石段を登ったところの修験者の行所、阿字ヶ峰行者堂にて地域の郷土史家、観光協会の方が来られている中で勤行。
この後お訪ねする迎之坊と云われていた向井家の支配するところであったそうである。
少し歩いて貴重な割拝殿の残っている春日神社での勤行を経て、十四時三十五分、千年以上にわたっての長い間、葛城修験道を支え続けてこられた向井家に到着。
高祖神変大菩薩と書かれたのぼりと提灯をこの日の我々のために取り付けられた門を入り、温かく迎えられる。勤行の後、お接待を頂きながらお話を伺い、休ませていただいた。
数分歩いた近くの民家のお庭にて七堂伽藍であった伽陀寺跡に遥拝。
バスにて十六時、黄檗宗普照山金輪寺着、勤行、お茶のお接待を頂く。
再びバスでの移動の後十六時五十分、総本山三井寺の旗を掲げて仏国山西念寺に入る。
明治初年軍用地となり廃寺になった山伏の行所でもあった神福寺から遷座された十一面観音が祀られている観音堂、本堂にて勤行。
その後、神福寺跡、第二経塚にて勤行。
村の方達のご厚意で藪がきれいに刈られ勤行し易かった。
初日の緊張感と不安感を感じながらも皆様に支えられて無事第一日目の行程を終え十八時過ぎに加太あたらし屋旅館に到着。
すぐにお風呂、豪華な夕食に感謝し、明日に備えて早めに消灯。
十一日
三時起床、心配された雨もなく安心して四時バスに乗り込み出発、四時半バス下車、あたりはまだ暗く小雨が降りだしている。
川沿いに少し歩いて三の宿寳長山高仙寺着、石段を上ったところにあるお堂前で勤行、村の方が早朝にもかかわらず来てくださっていた。
お堂の裏に古い石の祠、五輪の塔が乱立、少し下ったところにある役行者母公の墓前にて勤行。
五時、お堂裏から山中に入る、まだ暗い中、登り坂が続く。
小まめに立ったままの小休憩を取り、疲れを溜めずに、隊列も調整しながら適度な速さで進み続ける。
突然視界が開け町の明かりが遠方に見える、なだらかな起伏が続く、小休憩の後、歩き始める時に聞こえる法螺貝の音は行中であることを思い起こさせてくれ気持ちがそのつど引き締まる。
雨はすでに止んでおりあたりが少しずつ明るくなってくる、頭のヘッドライトを頭襟に付け替える。
小雨後のさわやかな風が当たると汗が気持ちよく乾いてゆく。
隊列は巧みな先導によって間が開かず、順調に進む、おしゃべりもなく皆黙々と均一な速さで歩く、まとまりがよい。
腰にぶら下げた鈴、錫杖の音だけが聞こえる。
六時三十分、飯盛山と札立山の分かれるところに出る。
飯盛山方向に向かい五分ほどして信長の雑賀攻めか秀吉の根来寺攻めの時に焼失した役行者開基と云われる千間寺跡着、瓦が散乱しており、祠のある閼伽井には鳥居が建っている、勤行。
ここより十分程で飯盛山山頂(三八四・五m)勤行の後朝食、曇り空の中、遠方に淡路島が見える。
整備された尾根伝いの道を緩やかに下ると、商人が米相場の伝令の中継地点としても使われていたという札立山山頂(三四九・三m)に八時十分着。
鳴瀧不動に向かって遥拝。
十五分程で鳴滝峠、緩やかな登り二十分で見返り山(古くは金剛童子山)。
九時十分、奥辺峠(大福山まで一・四q)。九時四十分、大福山山頂、千手寺跡、第三経塚着、勤行。
何か所か第三経塚といわれているところがあり、少し戻ったところにある経塚にても勤行。
千手寺も根来寺攻めの時に焼失、ここにあった千手観音は麓の寺で祀られているそうである。
少し休憩を取り、十時半、山伏の掟の厳しさと仏の慈悲とを表現した能の谷行の舞台でもある籖法嶽にて勤行。
十一時、井関峠着、予定より一時間早いペース。
曇り空、涼しい風が時折吹き、汗をかいても少し休むと乾いて疲れも取れる、歩くには適した状態。
ここより南へ下ると役行者の母の墓があるという六十谷、墓の谷があり、そこに向かって遥拝。
十分程休んで出発、視界が開けたところでは紀ノ川沿いに広がる市街地が見渡せる。
十一時五十分、地蔵山(四四六m)展望台到着、霊山峰遥拝、昼食。
落合村に向かって緩やかに下ってゆく、途中より三m幅ぐらいのわずかな水量の川沿いを歩く、休憩所で膾谷さんらの出迎えを受け合流。
水量が増えてきたところ辺りから水田が現われ始め農家が数件、里に下りてきた実感、産廃絶対反対の看板も目に付く。
十三時十分、寺か神社の跡らしき村内の一角に江戸時代初期からの供養塔が集められており、そこにて勤行。
十四時十五分、不動の滝着、村の自治会長さんらがやって来られ説明してくださる。
少し上がった所にカンマンの滝があり両方にて勤行。
ここから徒歩五十分の所に滝畑金剛童子(中山王子)があり遥拝した後、村内へと案内される。
「巨大産廃を許すな!」と書かれた大きな幕を横目に見ながら、苔むした歴史を感じさせる石組の上に建てられたお宅に招かれる。
今おられる村のほとんどかと思われる方々からのありがたい出迎えの中、碑伝は玄関の左の柱に打ち付けられ、右の柱にはすでに法照院鉄山先生の碑伝がある。
すぐに勤行。
お茶のお接待を受けながら、励まし、ねぎらいの言葉をかけていただきながらも地域の環境、未来に大きな変化をもたらす産廃問題に話題の関心が移ってゆく。
ささやかな交流の時を持った後、十五時二十分出発。一〇〇m程歩いたところの、京都から熊野古道に至る九十九王子社の紀の国に入って最初の王子社である葛城二十八宿行所王子権現跡にて勤行。
近くの山中渓境谷(第四経塚)での勤行を終え、バスにて根来寺へ。十六時十五分着、出迎えてくださった方が寺の歴史を詳しく説明され、根来寺攻めによる焼失した巡拝地を思い出しながら拝聴させて頂いた。
諸堂内での勤行を終えて、予定より二十分早く根来温泉国分屋に到着、おいしい夕食とお風呂がありがたい。
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十二日
三時起床、準備出来次第出発、バスに乗り込み二十分程で土仏峠・根来山げんきの森着、準備を整え点呼、法螺貝の音で気を引き締め、意識を合わせて山中に入る、最終日、まとまりのある行道が再び始まる。
各自が持つライトと先頭を歩く浅村さんの背中にくっきりと浮かび上がる蛍光帯が闇の中を歩く私達に安心感をもたらせてくれる。
緩やかな登り坂、汗をかき始めても足取りは軽い。
夜空を見上げればオリオン座、明けの明星が輝いている。
馬別れを経た辺りから川のせせらぎの音が聞こえ、川沿いに歩いていることに気づく。
体力を効率的に使う立ったままの小休止を何回か取り五時二十分、遥拝所着、予定の三分の二の歩行時間、速いペースでの到着である。
倉谷山、第五経塚へは急斜面を登らないといけないため遥拝。
十分程歩いて今畑多門寺、白髭明神社着、二か所で勤行。
お祀りしている村人が少なくなり、管理は大変なようである。
薄明るくなる中、朝食を取る。
法螺貝の音で再び行道開始。
山中に朝日が差し込んでくる、川沿いを列に乱れなく黙々と歩く。
今回はペースが速いため遥拝の予定であった九頭龍明神社に山中をしばらく登って六時四十五分着、勤行。
山を下りるとすぐにナス、大根など畑の作物が立派に実っている落ち着いたたたずまいの村に入る。
来迎寺の前ではたくさんの村人が出迎えてくれ、膾谷さんらとも合流、お堂内で勤行、お茶のお接待を頂きながら話に花が咲く。
普段このお堂は祈りの場であるとともに語らいの場にもなっているという。
ゆっくり休ませていただき、七時半出発、村はずれに待機していたバスに乗り込み、神通温泉を通り過ぎ、橋のたもと万燈谷入口で降り山中に入る、十五分程歩いて松峠、五分程歩いたところに志野峠、第六経塚にて勤行、道の起伏の状態によっては列に間が空くこともあり小休止にて整え、さらにそれぞれの体調、体力、時々の状態を確認しながらの速度調整、点呼による人数の確認をしながら進む。
休みすぎても、また座った姿勢での休憩も食事時以外ではかえって疲れが出て後の行程に支障が出ることもあるようだ。
全行程を把握したうえで進行状況によっては遥拝と現地での勤行を使い分ける等々を細やかな気配り、絶妙な先導に驚く。
一時間半近く山中を歩いた後、九時十分ごみ焼却場に出る。
トイレをお借りし休憩。
舗装された道路を少し下った所に中津川アラレ宿、第七経塚、勤行。
遠方に紀ノ川を望みながら道路を少し下って、再び山中に入る。 放置されたスギ林、竹藪が生い茂る中、落石の跡、竹の折り重なった歩きにくい道を行く、列が乱れ始めると法螺貝の音が聞こえ意識を取り戻す。
しばらく下ると勤行の声が聞こえ社殿が見え始める。
葛城前鬼谷の文字の深く刻まれた石塔を通り熊野神社十時到着、すぐに勤行。
山里の集落、ここ中津川地区は役行者が中津川の行場を開く際に協力、付き従った人々が前鬼と呼ばれる人々でその子孫が五鬼として、今も使命感と誇りを持って熊野神社、行者堂を崇拝、お祀り、守護しておられるところである。
また二十八宿中の「中台」とも云われ、胎蔵界曼荼羅の中央部の中台八葉の描かれている場所にたとえられるように葛城修験の中心地とされている。
長く聖護院との関係が深く、毎年四月に行者堂前にて採灯護摩が行われており、今回、我々天台寺門宗の護摩供にあたっても護摩壇組はじめ諸準備を地域の方々のお力、ご奉仕のおかげで執り行うことが出来た。
このような尊い聖域での採灯護摩、この場に私自身がいることの不思議さとありがたさを強く感じつつ護摩供養に参加させていただいた。
行者堂前の結界内最終準備を整えて、十時五十分、法螺貝の相図で熊野神社前より行道開始、極楽寺本堂行者堂前で一段と声を大きく勤行。
かつては阿弥陀三尊をお祀りする阿弥陀堂であったが今は役行者像をご本尊としている。
石段を下りて結界内へ。
参拝者の見守られる中、犬鳴山修験の方々と心を一つに大護摩供、終わって福家俊彦先生が地元のお世話になりました方々に対して感謝の言葉、そして葛城修験道の歴史の掘り起こし、整備と復興に喜びの中に情熱をかけておられる膾谷先生に、また実際に何十回、何百回と御山に足を運ばれ、先人達のご苦労と地元の人達の思いに直接に触れ、この三日間の入峰修行に集約、形あるものにしていただいた浅村様に感謝の言葉を述べられた。
さらに天台寺門宗として大峰修行に加え、智証大師ご生誕一二〇〇年記念事業として始まった葛城入峰を合わせた二大修行の位置付けについても話され、私自身今回の入峰修行を、より感謝の気持ちをもって振り返りつつ、十二時二十分極楽寺を後にする。
みかん、柿、梅畑の点在する村を通リ抜け桧木の宿と刻まれた石碑のあるところに辿り着く。
極楽寺近くに桂の森という石碑があるそうで、月の桂としての陰の桂、日の当たる所を好む陽としての桧との対比、陰陽思想の具現化したものでもあるとも云われている、勤行。
バスにて根来温泉国分屋に戻って昼食をいただいてから十四時二十分、修験道に深く関係のある粉河寺へ、ここより極楽寺、熊野神社を通リ犬鳴山への修験の道沿いには多くの中世からの石塔、町石が残されており、熊野神社境内、参道にいくつか目にすることが出来た。
本堂、行者堂にて勤行。 すべての行程を無事終えて十五時半、一路三井寺へ。 十九時三井寺着、微妙寺にてご報告と感謝の勤行。
すぐに宗務本所にて長吏猊下よりお言葉を賜り、私を含め二名の者に満行の証を頂き、これより意識的な学びの始まりとせねばという想いを持って三回目の入峰修行を終えました。
葛城二十八宿を振り返りまして、霊気漂う滝行場、経塚、寺院、神社、祠など皆様と共に、歩かせていただいたおかげで初心者の者であっても聖域ならではの貴い力に触れさせて頂くことが出来ました、感謝申し上げます。
同時に行く先々での地元の人達との交流の中で、葛城山系は里に近い霊峰であるため自然の恩恵を受けながら営んできた信仰とは切り離せない宗教的教養の高い生活を、お接待を受け、長く伝承されてきたお祀りしている様を見せていただくことになり、背景にどのような歴史、思いが横たわっているのかという問いも私の中で感じることの多い行ともなりました。
また先祖代々、神仏をお祀り、場の維持管理、伝承するだけでも信仰の証とはいえ大変な労苦の積み重ねであったでしょうが、さらに戦乱、法難という大きな苦難を潜り抜けてきた足跡をたどる巡拝でもありました。
今回の行程では、現代ならではの予想外の新たな苦難に出会うことになりました。
「産廃絶対反対」の看板、幕を何度か目にすることに。
歴史時代以前、宗教成立以前より古来の日本人の信仰の聖地の中心地ともいえるここ葛城において、里に恵みをもたらしてくれる水の神の住む清流の源流、水源地でもあるこの地に巨大な産廃処分場が計画されている。
信仰者、宗教者にとっての行場、地域の人たちの生活条件の悪化だけに留まるものではない計画に対して、園城寺はじめ修験宗派五ヶ寺が計画中止の要望書を和歌山市長、市議会議長、和歌山県知事に提出したそうである、このことも巡拝記録に加えねばと思いました。
このようにいつの時代であっても、様々な形の他からの力による影響を受けざるを得ず、それに加えて内部要因の憂慮として宗教的無関心、山村地域においては過疎化、高齢化、後継者不足が葛城修験道場においても起こっており、記念行事として始まった葛城入峰修行、地域の皆様方はじめ関係者の大変な熱意とご努力により信頼関係を築くところから、歴史の掘り起しから始まり、後に続く形あるものとしてこの時期に成り立ったということは、大変素晴らしく大きな意味のあることと思います。
私は皆様方の、すべて準備され行中にあっても導きと支えをいただく中で、ご教授を受けながら尊い行場を巡らせていただきました。
大変申し訳なく、ありがたく感じております。 この地の密度の濃い歴史に畏敬の念を覚えつつ、温かくお接待してくださった地域の皆様方、本山、犬鳴山の諸先生方、諸先輩方にあらためて感謝申し上げます。
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