去る平成十八年一月二十二日、福岡県柳川市の千乘院(吉開賢淳住職)において、総本山園城寺の重要文化財不動明王坐像の御影像入佛に伴う記念事業として、護摩堂の落慶法要と採灯大護摩供を厳修いたしました。
住職になって約二十年、この度長年の懸案でありました寺院らしき佇まいを、ようやく整えることができました。 御本尊様を始め諸仏様もさぞかし御喜びのことと存じます。
当山は本朝四箇大寺の一つである近江国園城寺の百四十箇寺坊の寺中の一つであります。
しかし、延暦寺との山寺両門の争いや文禄四年(一五九五)の豊臣秀吉による闕所により、堂宇は破壊され、寺領は没収される等の法難に遭遇いたしました。 こうした中でも、智証大師の門下に集まった多くの俊英達の努力により、不死鳥の如く甦ってきました。
当山は、御本尊を千手観世音菩薩とし、醫王山千乘院と号し、二十余石を賜り、明治維新を迎えることになりますが、またしても慶応四年(一八六八)の神仏分離令による仏教排斥運動の法難に遭遇することになります。 そこで、関係者一同協議するも壇信徒もなく、再興の目途は相立ちませんでした。
こうした折、福岡県への寺院移転のお願いが出され、九州初代住職西義寛和尚の宿願により、明治四十一年八月十三日、園城寺寺中にあった当山を北九州市八幡西区金剛四丁目七番十一号へ移転することになったものであります。
爾来、当山は鋭意維持に相勤め、親子孫三代に亘って維持されて来ましたが、三代目住職西浩徳和尚が三十八才の若さで亡くなられた後、後継ぎの長男は幼く心許なき故あって、遺族は当山を出て、別に生活されることになったのであります。
また、当山の寺院は、明治の初頭か、江戸末の建物であり、永年の風雪により腐朽甚だしく、改築の必要に迫られておりました。
然る折、当山五代目住職吉開賢淳師が平成十六年六月六日、柳川市高島二九七番地の吉開本家の五代目を継承することとなり、広い屋敷地を得たのを機会に、当山御本尊をこの地にお迎えし、また同時に、護摩堂建立と合わせて蔵を本堂とする計画を発願いたしました。
時恰も、総本山園城寺長吏福家俊明猊下の御厚意により、園城寺の重要文化財である不動明王坐像の御影像を当山の護摩堂御本尊としてお迎えすることとなりました。
まさに記念すべき護摩堂等落慶入佛慶讃法要に伴う記念事業として、今回落慶法要及び採灯大護摩供を厳修した次第であります。
当日は、地域の壇信徒等延べ百余名の御参詣の中、本行院住職藤野賢隆僧正を大導師にお迎えして、福岡第一宗務支所内教師並びに、来賓として福岡第三宗務支所長山口弘隆師、聖護院永福院高橋信光師等によって奉修されました。
次第 |
護摩堂落慶法要 差定 |
先 |
大導師式衆入堂(法螺吹奏) |
大導師 |
本行院 |
藤野 賢隆 |
次 |
大導師登礼盤 |
副導師 |
千乘院 |
吉開 賢淳 |
次 |
伽陀 |
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奥之院 |
安部 玄俊 |
次 |
鐃鉢 |
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福聚寺 |
村上 澄俊 |
次 |
三自帰 |
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円通院 |
原田 豊隆 |
次 |
七佛通戒偈 |
鐃 |
福楽寺 |
石橋 弘勝 |
次 |
表白 |
鉢 |
晃恩寺 |
服部 賢秀 |
次 |
四奉請 |
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青山 俊道 |
次 |
誦経(普門品) |
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松永 敬全 |
次 |
本尊真言(不動真言) |
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前田 晃隆 |
次 |
後唄 |
先導法螺 |
龍王院 |
星 一龍 |
次 |
大導師下礼盤 |
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次 |
副導師登礼盤 |
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次 |
法楽(火入式) |
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次 |
本覚讃 |
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次 |
副導師下礼盤 |
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次 |
天台寺門宗
福岡第一宗務支所長祝辞 |
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次 |
天台寺門宗
福岡第三宗務支所長祝辞 |
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次 |
住職謝辞 |
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次 |
大導師式衆出堂 |
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採灯師 |
本行院 |
藤野 賢隆 |
火生 |
千乘院 |
吉開 賢淳 |
法弓 |
問者 福楽寺 |
石橋 弘勝 |
法剣 |
答者 |
前田 晃隆 |
斧 |
龍王院 |
星 一龍 |
閼伽 |
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藤野 玄州 |
経頭 |
法螺晃恩寺 |
服部 賢秀 |
状筥 |
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吉武 賢清 |
敷皮 |
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芹田 賢慶 |
太鼓 |
奥之院 |
安部 玄俊 |
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