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敬光尊者に学ぶ(一) 『山家正統学則』を中心として
総本山園城寺法明院に住した敬光尊者(一七四〇〜九五)の著したものに『山家正統学則』上下二巻がある。この『山家正統学則』は、安永五年(一七七六)八月に「山家の学路に入るべき初心者の枝折」として著わされたもので、日本天台学徒究学の絶好の指針ともいわれ、まことに貴重な文献たるを失わないものといわれている。
敬光尊者がこの著書をしてなぜ正統学則と題したかは、此丘敬光謹題とする序文に、
北嶺ノ伝法振古ノ四家、禅円戒密ト謂フ、蓋シ是大師脈譜ノ列次ナリ。就中兼伝ノ禅、 巻ニシテ之ヲ懐カズ。機ヲ見テ以テ示ス、祖意ニ背クコト無シ。其ノ円教ノ若キモ、頗 ル常唱ノ如シ。然ルニ円頓戒学未ダ入ル可キ門ヲ開カズ。倶密教相、亦進学ノ路ヲ絶ル、 其ノ門戸ナリ。筆削無ルベカラズ。其ノ蒙キヲ誘フ、教授無カルベカラズ。是ノ故ニ新 シク著シテ以テ入ルベキ所ヲ解ス。新講以テ策進ノ道ヲ誨ン。山家四宗、以テ特ニ学則 ヲ立ツルナリ。高祖四脈ニ列シテ意テ日ク、一家法禄、例ニ依テ名ヲ加ス。両門宗徒、 誰カ祖ノ誥ニ辜負スルコトヲ欲スルカ。
甲寅仲春初四
比丘敬光謹題(原漢文)
とある。
この序の要を解するに、円教のごときは頗る常唱しているが、円頓戒学の入るべき門をいまだ開いておらず、倶密教相(事密〈印契・禁呪など〉と理密〈真如実相=ありのままのすがた=〉などの理)また、進学の路を絶っている。それは暗さを誘うようなものである。教えなければならない。それ故に新しく著して、入るべき所を解るようにする。新講の手立てをもってその道を教えよう。よって特に学則を立てるものである。両門の宗徒誰か祖の教えにそむくことを欲するものであろうか。と解してよいのではなかろうか。
このような序文をもって書かれた『山家正統学則』は、どのような内容をもったものであろうか。まず、それを巻上の巻頭に述べられている文をもって窺ってみよう。
凡学則ハ其大綱ヲ云ニ、別ノ仔細ナシ、但一心ニ寸陰ヲ惜ミテ読書スベキナリ、禮記 ノ弟子職ニモ、朝益暮習、小心翼々、一此不懈、是曰学則ト云ヘリ、陶侃分陰ノ誡、古 人蛍窓雪案ノ勤、以テ自ラ励スベシ、サレドモ一向ニ初心ナル儔ハ、其筋ヲ知ラズシテ、 何ニテモ書籍サヘミレバ、我宗ノ学問ノ如ク心得、諦観録一遍ノ講演ダニモ聴カズ、又 一向ニ教時の方隅ヲモ了セザル内ニ、磐師ノ佛祖統紀、旭師ノ宗論等ヲ披キ、其(シ) クシテハ何ハ今宗ノ書、何々ハ何宗ノ書ト云事ヲモ分別セズ、初ヨリ唯識論ノ述記、或 ハ碧岩ノ提唱等ヲ聴ク輩アリ、投足ノ始ヲ知(ラ)ズシテ、此ノ如キニ至ル、是故ニ今 本宗徒、山家ノ学路ニ入(ル)ベキ初心者ノ枝折ニト、聊(カ)其次第ヲ書記ス、安永 五年秋八月(括弧内およびルビ筆者)
この巻頭言は、よく引用されるもので、敬光尊者の学究的志向、殊に当時の天台学を学ぶ者にとって重要な指針となるべきものをもつものであったろう。
巻上の目次をみると、「止観業学則、凡十四章」。「遮那業学則、凡十七章、因ニ悉曇声明業及ビ梵学ノ次第ヲ記ス」となっており、内容に至っては、まことに近世天台学の碩匠だけあって、随所にその学識の深さが述べられている。 ここで一応、敬光尊者とはいかなるひとであるかを知らしむべくその梗概を記してみたい。敬光尊者については、文政十一年(一八二八)、園城寺法明律院版として刊行された『顕道和上行業記附復古四侍畧伝』あるいは『続日本高僧伝第九』等にある。辞典等を参酌しながらその伝記を記述する。
敬光(一七四一〜一七九五)、近江園城寺法明院の学匠。字は顕道、藕嶺と号し、また恋西子と称した。山城北岩倉の人、俗姓は伊佐氏、宇多天皇の後裔であるという。元文五年(一七四〇)生る。寛延三年(一七五〇)十一歳にして園城寺敬雅僧正に師事し、宝歴二年(一七五二)得度し、本教行院に住して密教を習い、経史を那波魯堂・龍草廬に承くる。明和五年(一七六八)春法幸三味を修し三七日間断穀修行し、翌年北岩倉に隠棲、同七年京都に出て相国寺に寓し慈雲について悉曇を学び、兼て密灌を伝う。同八年六月播磨西岸寺の請に応じて観経妙宗鈔を講じ、冬洛東源宗院に摩詞止観を講ずる。尓来講説に虚日なく、かたわら著述に従う。安永五年(一七七六)冬定玉に従いて五部伝法をうけ、同七年春梵綱具足戒を受ける。同年冬戒光山に登りて戒灌の法をうけ、ついで洛南長講堂に四教儀集註を講じ、河内岩涌山に移って学徒を誘掖する。天明五年(一七八五)和泉鳩原弥勒堂に移り、同六年冬出雲鰐渕寺に転ずる。同八年春松府晋門院に掛錫し、寛政三年(一七九一)春蓮光寺に遊化し、出雲大社に詣で、円戒の冥助を祈り、同五年春京都に入る。同八月定玉に伝法後授記を受け、同六年春播磨善楽寺の請に赴き、同年秋戒伝の席を継ぎて園城寺法明院に住し、ついで四教儀集解を講ずる。翌七年病に罹り、同八月二十二日寂す。寿五十六。師は円密禅戒の四宗に達し、安永寛政の間に於て、山家大師の古に復さんことを欲し、盛んに五時五教の教風を宣揚し、終始その復古運動に尽瘁した。著作に、
円戒膚談七巻
円戒行事綱宗七巻
顕戒論随釈六巻
大乗比丘行要鈔六巻
幼学顕密儀五巻
三聖二師禮讃文五巻
妙宗鈔講案各五巻
石欄集四巻
円戒指掌三巻
唐房行履録三巻
松堂月纂三巻
和字考各三巻
三式貫注二巻
山家正統学則二巻
行事綱宗二巻
行事訳二巻
西遊篇各二巻
円戒律目録
大乗比丘新学律儀一巻
策修要法一巻
大乗十善戒儀一巻
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出家洪範一巻
僧戒説一巻
山家列祖儀一巻
山家宗門尊祖儀一巻
教時要義一巻
大日経心目講翼一巻
遮那経指帰一巻
遮那経講翼一巻
法華梵釈講翼一巻
法華儀講翼一巻
即真義講翼一巻
悉曇蔵序講翼一巻
列祖儀講翼一巻
菩薩戒経開題一巻
八詠楼詩抄一巻
迎涼台詩鈔一巻
学生式随釈
大乗比丘作事領会
通別二授指瑕
大戒綱要扶膜
顕密儀上巻講案各一巻
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などがある。
以上のほか、伝教大師の法華大綱、慈覚大師の寂光土記、恵心尊者の教時略頌、五大院安然尊者の悉曇蔵序、智証大師の遮那略釈を安永四年に幼学顕密義二巻に収載し、終りに伝教・慈覚・智證の三大師と安然・慈恵両尊者をあわせて三聖二師と称してその小伝を録しているというが、前掲の著書目録と重複するところもあるやに思考されるので今後の考究に俟ちたい。
いずれにしても、敬光尊者は、円密禅戒四宗の奥底を探り、その化導甚だ盛んにし、多くの著述を残した。それは無慮一百巻にも及ぶと称される。その業たるやまさに驚くべきものがある。
敬光尊者は、これだけの業績を挙ぐるのにどれだけ学問に精励したか量り知れないものがある。
この巻頭言は、よく引用されるもので、敬光尊者の学究的志向、殊に当時の天台学を学ぶ者にとって重要な指針となるべきものをもつものであったろう。
上述した如く、『山家正統学則』上巻の巻頭言に「凡学則ハ其ノ大綱ヲ云二、別ノ仔細ナシ、但一心ニ寸陰ヲ惜ミテ読書スベキナリ、禮記ノ弟子職ニモ、朝益暮習、小心翼々、一此不懈是日学則ト云ヘリ」と記しているところからみると、学則の大要は別に仔細はなく寸陰を惜しみて書に接しなければならないという。
『山家正統学則』は、それぞれの叢書に収録されてあるが、いま手元にある国書刊行会蔵版の『近世佛教集』にも収録されてあり、それによる解題を三田村玄龍師が記しているがその文中に「本書は但に蒙学に便りあらしめんとするものなれども、実に台学の南針たり、近時日本天台の講習に忙しき学生を見るに至れるも、律師が警発に他ならず」と述べている。敬光尊者の台学の学究指針をさらに小見として続けてみたい。
敬光尊者に学ぶ(二) 『山家正統学則』を中心として
敬光尊者の著書の『山家正統学則』については、その評価が高く、近世における天台学を論ずるときに、今日の学書にも●その引用がみられる。
ことに「台密(たいみつ)」を論ずるときには、敬光尊者の論述に触れることが多く、したがって『山家正統学則』の存在が随所にみられる。
『天台宗聖典』の編纂で著名であった硲慈弘の著書『日本仏教の開展とその基調』(下)のなかの「日本天台典籍解題」で「山家学則」(「山家正統学則」のこと)のことがとりあげられ紹介されている。また、台密の研究者として知られた清水谷恭順博士は『天台密教の成立に関する研究』においても、この『山家正統学則』が随所に引用されている。さらには、高野山大学の教授であった大山公淳博士は『密教史概説と教理』の「徳川時代(台密の大勢ー前期)」において次のような論評をしている。
(前畧)
安永五年八月に述作した山家正統
学則上下二巻は上述趙宋天台学の勃興を慨して、伝教大師の祖意による四宗を兼学しなければならぬことを強調したものであって、日本天台学徒究学の絶好指針としなければならぬ。誠に当代貴重の文献たるを失わぬ。
(以下畧)
かくのごとく『山家正統学則』は、天台学徒究学の絶好の指針といわれるもので、学路に入るべき初心者の枝折にと講説されている。
しかるところから、この学則には片時半飼にも復読暗記すべきもの、あるいは素読すべきもの等があげられてある。まず〈止観学則(凡そ十四章)〉の章において暗記すべきものとしてかかげているものを記してみよう。
○三大部
三大部とは、三種の大部の書の意であるが、つぶさには、「天台三大部」、あるいは「法華三大部」、または「三大章疏」ともいっている。すなわち天台大師智の選述中最も大部なる三種の典籍で、《妙法蓮華経玄義=法華玄義》、《妙法蓮華経文句=法華文句》、《摩訶止観》の三大部である。
この三大部は天台宗の立教開宗の原典として、天台大師智の数多き著作の中で最も重要なものとされている。天台大師智は、大達七年(五七五)以後、天台山上に隠棲生活を続けたのであるが、陳の少主の七度に及ぶ屈請により、至徳三年(五八五)四十八歳で下山、陳都の金陵に出ることとなった。
それから再び天台山に還って、随の開皇十七年(五九七)六十歳で入寂するまでは、天台大師智の思想の最も円熟したもので天台教学が大成したいわゆる後期の時代である。
この後期の時代は、三大部講説の時と晩年時代との二期に分かつといわれるが、三大部講説の時代こそは、学者として、また宗教家として活躍した時代であり、めまぐるしい政治社会の転換期に対処しつつ、偉大な仏教教学の体系を樹立した時代であるといえよう。
《法華玄義》十巻は、釈名(題名の解釈)、弁体(題名に現わされた本質を明確にする)、明宗(教えの修行宗旨を明らかにする)、論用(教えのはたらきを論ずる)、判教(仏教全体中で経の教えが占める位置を定める)すなわち「五重玄義」という天台独自の組織で、法華経の経題を中心に、幽玄な義理を明らかにしたものであり、《法華文句》十巻は、法華経の文々句々を逐次に解釈したものである。《法華玄義》《法華文句》の両書とも、四教や五時といった天台の教理が説かれ、天台の法華経観が明示されている。
《摩訶止観》十巻は、法華経の精神に基づいて、天台の具体的な実践修道の方法を論じたもので、その実践法を「止観」という用語で統括し、四種三昧や、一心三観、一念三千といった観法が示されたものである。
以上のごとく、大成せる三大部の天台教学は、それはいずれも法華経に根底を置いているので、法華経に対するこの妙解は、《法華玄義》と《法華文句》のうえにも見られ、法華経に対する妙行は《摩訶止観》のうえに示されている。しかも、その講説はいずれも雄大な構想のもとになされ、天台智者大師別伝に「若し法華玄義並に円頓止観を説かば半年に各々一●せん」とあるように、それぞれ数か月の日数を費してなされたものであると思われる。
したがって、その講説を聴きその鴻恩に浴したものは少くない数にのぼったが、この三大部の講説を聴いて詳細な筆録を残したのは章安大師潅頂であった。
潅頂(五八一〜六三二)は臨海県章安の人。七歳のとき摂静寺恵拯に師事したが、恵拯の入寂後は笈を負うて天台山に登り、智の門に入ったのが至徳元年(五八三)時に彼は二十三歳であった。その後、智に従って金陵に出て陳の禮明元年(五八七)二十七歳で法華文句を聴講した。隋のため金陵が陥るや同門の人々は乱を避けて離散したが、潅頂は再び盧山で智にめぐり会い、陪従して荊州に行き、彼地で法華玄義と摩訶止観との講義を聴き、悉くその講説を筆録した。この聴記本こそが智の講説をそのまま記したものであるから、もしこれが現存していたとするならば、智の思想や学説が極めて素朴な形で把握することができたのではないかといわれている。であるが、現行の三大部は必ずしも潅頂の聴記したままではなく、その後数十年の歳月の間において、潅頂は再三再四これに修辞添削の筆を加えて完成されたものという。
天台大師智の著作は現在四六部一八八巻があるとされているが、これを書冊の成立形態から分類すると、
(1)親撰
(2)真説
(3)仮托
の三類に分けられるという。
(1)の新撰とは大師が親しく筆をとったもので、『三観義』や『四教義』などであるが極めてそれは少ない。(2)真説とは大師自ら講説した撰述であるが、これにはA・Bの二類があって、A類は『維摩経玄疏』や『文疏』のように、大師が口授をなし門人に筆録せしめて大師自ら監修したものである。文責は当然大師にあって親撰に準ずるものである。B類は大師の講説を門人が聴記したもので、大師の在世中には書冊が完成せず、文責は聴記した門人に帰せられる。天台三大部の『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』などはこのB類に属するもので大師の講説のままではありません。修辞添削の過程で、なにほどかの潅頂の私見が加わっているものとも考えられるという。
これらの研究には、先学諸師の方々の考究に俟たねばなりません。いずれにしても、この三大部は、天台宗門にとっては逸することのできない重要典籍であるので、敬光尊者も『山家正統学則』の〈止観学則〉の章において暗記すべきものとして、第一にかかげている。
それと同じく暗記すべきものとして敬光尊者は、〈止観学則〉のなかで、とりあげてあるものに「天台五小部」がある。その「五小部」とは、学則によれば
観経疏
光明玄
光明疏
観音玄(マタ別行玄トモ云)
観音疏(マタ別行疏トモ云)
とある。そしてこれには「皆四明尊者ノ記アリ」とされている。
四明尊者とは、中国天台宗第十七祖知礼(九六〇〜一〇二八)のことで、北宋代の天台宗山家派の僧であって、中国浙江省四明の人。四明尊者と称され、法智大師の号を受ける。趙氏の立てた宋の時代の天台を〈趙宋天台〉と呼ぶが、知礼はその期に出て、華厳化した天台を原始天台にもどそうと努めた。知礼は華厳化した天台学者を〈山外派〉と評し、みずからを正統天台として〈山家派〉と称しつつ『十不二門指要鈔』などを著し、また『観経疏鈔宗鈔』・『金光明玄義拾遺記』・『金光明文句記』・『観音玄義記』・『観音義疏記』等の五書は、天台大師智の五小部と名づられた書の解説で、天台学に必須の書とされた。
敬光尊者は、学則で『天台三大部』『天台五小部』の暗記することの要を述べているが、今日的な学的環境からいうと、それは、決して容易なことではないかも知れないが、暗記までは容易でないとしても、通読するぐらいの機会をもつことの究学の姿勢のあることを念じたい。
敬光尊者に学ぶ(三) 『山家正統学則』中心として
前述において、敬光尊者は〈学則・止観学則〉に、天台学徒として暗記すべきものとして「天台三大部」および「天台五小部」等を訳しましたが、
これにつづいてさらに素読すべきもの≠ニして
四教五時略頌(恵心尊者)
止観大意(荊溪)
金●論
十不二門
などをあげている。
敬光尊者は、前者の三大部・五小部を片時半餉にもこの書目を暗記、恵心尊者の『四教五時略頌』、荊溪の『止観大意』、『金●論』、『十不二門』のこれらの書もとくと素読すべしと述べ、そのほかにも素読のの書があること(「三千有門」「玄義略要」及び「止観科節」など)を示しているが、多くは無益であるとしている。
いずれ、以上あげた書を復読暗記しおわったならば、次にその講述を聴くべし。但し、志学未満(十五歳に達しない者)の雛僧の徒は『教観綱宗』(一巻。明の智旭〈一五九九〜一六五五〉の著。成立年不詳。天台教学の中心である化儀・化法の四教および十乗観法について、初心者にも理解できるように説いたもの。『天台四教儀』と共に天台学の入門書とされる)は略にして学びがたく、諦観録(「天台四教儀」一巻、高麗の諦観の著のこと)は、簡にして信心おこりがたしといい、吾宗の教観を示せる西谷(「西谷名目」のこと、天台宗の四教〈蔵教・通教・別教・円教〉と五時〈華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時〉などの教義を初学者の理解のために問答体によって平易に解説した綱要書)は、儒教の五常を教える学に似ており、駆烏〈駆烏沙弥のことで、七歳より十三歳まで沙弥をいう。三沙弥の一〉は先ず是より学ぶべしと述べている。そして余力には『四教儀集柱』(くわしくは「天台四教儀集柱」中国元の蒙潤が、諦観の四教義を釈せるもので天台研究の不可欠の著という)これを教相の書としている。さらには『不二門指要鈔』(「十不二門指要鈔」二巻のこと)これは宋代に天台宗を中興したる四明の智礼の撰であるが、荊溪湛然の著である『玄義釈籖』の記述を別行したのが『十不二門』で、本書はその注釈書である。
これを観心の書として、強いてせんさくして解すべしとは思はないとも言っている。ただ、何偏も考えて読むべきという。一切の書について、初心の時には通解すべきではあるが、無理に了解しなければならないとすると退屈する。あまりよいということにならない。
新学読文、四書中において、まさに四教儀より始むべしといわれてあるので、よく考えて定めるべきである。その場合の四書とは、〈法界次第〉〈四教儀〉〈戒疏〉〈小止観〉である。
法界次第にて一家の法相を学び、大部の四教儀にて一家の教相を知り、戒教義記にて戒法を明らかにし、修習止観にて心観を磨すれば、三学(仏道修行者の必ず学すべき戒学・定学・慧学をいう)の大綱、解行の要路などはこの四書にて尽るものであると示している。
三大部・五小部は、ひとしく海内学徒の入学の門であるので、その講演をも聴聞することが必要。それと『教時略頌』をあげているが渋谷亮泰編『昭和現存天台書籍綜合目録』によると、『恵心全集』のなかにあり、『山家正統学則』では、
教時略頌ハ、古徳皆コレニ依テ入学シ給ヘル所ノ大利アル書ナレバ、初ニ先此講ヲ好トス、我北嶺ニ何ノタラザルコトアリテ、遠ク異朝ノ末師ニ求ムルコトヲセンヤ、近代ノ学者、山家ノ四脈ヲ廃セルハ、是等特ニソノ源由ナリ、其幣改メテ可ナリ
と記している。これは極めて重要な内容を蔵しているものと思われる。
いうなれば、わが日本天台になんぞ足らざることありて、遠く異朝の末師に教宗講義を求めようとするのであろうか。ここでいう異朝というのは勿論中国で、いわゆる趙宋天台史上にあらわれる〈山家・山外派〉の派閥抗争になる時代にその因を観るところによるものであろう。それが「近代の学者、山家ノ四脈ヲ廃セルハ、是等特ニソノ源ナリ」ということにつながる。
また『八教大意』にもふれ、「一家ノ列祖ミナ尊崇シ給ヘル所ノ宗師ノ親撰ナレバ、常ニ講讃スベシ、流布ノ印本ノ初ニ濂頂録ストアレハ後人ノ誤マリ題セルナリ、巻末ニ明曠尊者ノ撰ナルコト分明ニ見ユ、略頌末ダ出ザル以前及ビ諦観録末渡ノ前ハ、古徳ノ入学ミナ此大意又ハ二祖ノ宗義集、惑ハ六祖ノ頌ニ依テ方偶ヲ授受シ給ヘルナリ」と記している。綱宗及び直解の類は人皆知るところである。これ等は皆教相の書籍であるのでその中一、二部はその講述を聴き、また不二門の指要等(これ皆観心の書籍)を聴講して、その後、四書及び五小部等を意に任せて披閲し、十義書及び指要詳解等を学習すべしという。このようにすること、凡そ四、五カ年もすれば、三大部等を一周することにもなる。
右の通りにして一周しておけば、自余の諸書を周監する内には、あらあら大部にも熟するうものであるという。ここでいう自余の書というのは、或は、浄名玄・浄名疏、涅槃玄、涅槃疏、楞厳玄疏、楞伽玄疏をいい、以上は教門の中に兼て、その行門を明らかにするものである。または止観義例及び天台大師説禅門章、六妙門〈天台にてニルヴァーナに入る六種の門。数息門=一から十までの呼吸を数え、乱れた心をおさめる。随息門=息を数えることなく、呼吸にしたがって心を散らないようにする。止門=心を平静にし、邪念を離れて心を一つの対象に集中させること。観門=対象を明らかに観察すること。還門=観察する心を反省し、その空なることを知ること。浄門=心によりどころなく、妄想の起こらないこと。以上『摩訶止観』にある。〉等、以上は教門の中に兼てその行門を明らかにする。或は、佛祖統記、宗論にいたるまでなり。
このようにして、その学業遂に成就せる上においては、三大五小部を幢旗となして、一家の学風地に落ぬようにするべしと。蓋し、これ台山四教の学なるのみ、わが北嶺はさらに三密の一教を加えて、五教の一家なればさらに進んでこの領域を研くべきである。それは真実に仏祖の大恩に報ずるものである。
また、華厳家、三論家、唯識家、直指の祖録〈禅師の教書〉等、または倶舎宗の宗義に至るまでも、皆一家の前三教〈三教とは仏一代の教法を三種に分別したることをいう。諸師の各説あり〉の所詮なれば、縁に随いきっかけを求めて、少しの暇にも学ぶべきなりと記している。
一切経にも諸宗各々の一切経アリト云うべく、然れば力に随い分にまかせて、諸宗の深意をも習学、立教修観の事情をも尋ね、または、経〈五経・十三経等〉、史〈十八史・二十一史等〉、子〈三子・五子の類〉、集〈四大家・八大家等の文集類〉の四部をも、分に随て会読し、筆削の間において、凡鄙の失なきようにすべく、また傍らには詩偈にも熟す。まれには、興を遺し、懐を述る程のことは、皆列祖の芳躅にあづかることができないことではない。
そのほか、小説の類、水滸伝、または小説精言等も読みおくこともよい。
かくすれば、禅録などの俗語多き書籍も怪むということが少なくなる。
禅録の上にては、同じ俗語ながらすこしは風彩の違うことなれども、多くの俗語を心得ておれば、その文言不審なることを無きに至るものである。これを学者の恒式〈きまり〉とするといっている。
以上のごとく、学習するとき、第一に最初より心得べきは、わが学は、何人の為ぞと、その所期をよく気をつけるべし。敬光尊者は、学問について、彼いわゆる学問之道無レ他、求ニ其放心一而巳(学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ)と孟子の文言を引用しているこの孟子の文言は『孟子』のなかの「告子篇」にあるもので、詳しくは、
孟子日、仁人心也、義人路也。舎其路而弗由、放其心而不知求。哀哉。人有鶏犬放、則知求之、有放心而不知求。学問之道無他、求其放心而巳矣。
(孟子曰く、「仁は人の心なり、義は人の路なり。その道を舎てて由らず。その心を放ちて求むることを知らず。哀しいかな。人、鶏、犬の放つあれば、これを求むるを知るも、放心ありて求むるを知らず、学問の道は他なし。その放心を求むるのみ。」)
意味
仁とは人の心であり、義とは人の道である。その道を捨ててあゆまず、その心を失って顧みようとも思わない。悲しいことだ。人は、鶏や犬がいなくなれば、すぐさがし求めるのに、心を失ってもとりもどそうとしない。学問の道は他でもない。失った仁の心をとりもどすことなのだ。
敬光尊者に学ぶ(四) 『山家正統学則』を中心として
前掲に、敬光尊者が、学問について 『孟子』の「告子篇」の文言を引用したことは、『山家正統学則』の「外典学則」に述べられている。
敬光尊者が「山家の学路に入るべき初心者の枝折」としてこの『山家正統学則』を著わしたことは上述のとおりであるが、そのなかで「外典学則」の一項を設けていることは、それなりに敬光尊者の思想としてうけとるべきであり、さらには、近世仏教の一つの特徴としてみるべきであろう。
敬光尊者は、「外典学則」についてその項に、「外典ヲ学バザレバ、外人ヲ伏スルゝ徳ニ乏シ、真正ニ法ヲ護シ、弘教ノ器ト成ン事ヲ志ス人ハ、学ビ得テ内道ノ荘厳トスベシ」書き添えている。
しかして、「儒書ヲ読ント思ハゝ゛四書五経ヲ素読シ、其上蒙求ノ標題ノ如キハ力ニマカセテ暗記スベシ」と述べ、「素読ノ分意ラバ、其ヨリ其蒙求題下ノ注、並ニ十八史略等ヲサラサラト読通スベシ、ソレヨリ稍道理モ分ル、(ソノ)上ニテ、小学〈書名・宋の劉子澄が朱熹の指導によって編集したもので修身・道徳の教科書。六巻〉ナドヲ取リテ一一得ト解シテ見ベシ」等々を述べている。これは、まさに外典の領域であるが、敬光尊者は「人事サヘ解シ得ズシテ、三乗〈声聞乗・縁覚乗・菩薩〉出世ノ道ヲ学ベシトハ以テノ外ノ了簡ナルベシ」という。
外典を学ぶことの枢要なることを云っているものとみるべきであろう。
因みに外典学則に掲げる書目を記すと次の如くである。
四書五経
十八史略
小 学
論 語
左国史漢
旧事記
古事記
日本紀
六国史
十七条憲法
近世聖徳非聖辨
神根儒枝佛華ノ論
名法要集
先代旧事本紀七十五巻
等々である。これはたんなる儒教と仏教との融合を説くものではなく、仏教を学ぶ者が世俗理解から出発すべきことを論すことのためである。とくに「世間ノ上ニテハ互ノ恩ヲ厚ク知ル事ヲ要トス、所謂是即チ四恩ノ中ノ衆生ノ恩ナリ」とし世俗理解の基盤を衆生・庶民におくとしたのは、近世における庶民との接触の経験からうまれた教訓として注目してよい(『日本仏教史』V近世・近代篇)
以上外典学則について記したが、これをもってしてもその学ぶべき領域の広さに嘆ずべきものがある。それは外典のみではなく、内典においてはなおさらである。わが寺門宗の先徳敬長和人の撰になる『顯道和上行業記』(文政十一年秋園城寺法明律院、皇都書林版)に
為り其ノ人ト器識宏遠意気精励、身ヲ仏祖ノ道ニ委ネ窮達操ヲ遷不、蚤ク台衡ノ旨ヲ領シ特ニ圓戒ヲ弘メ博ク遮那ヲ学ビ善ク其ノ淵ヲ測ル直指ノ印ヲ佩テ頗ル省吾有、悉曇聲明之法ニ於テハ大ニ発明スル所有、四家ノ梵音集テ而大成ス矣。古云ク於祖風ヲ継ギ家聲ノ墜サ
下ルハ者師其ノ人ナル哉。
(其ノ人ト為リ器識宏遠意気精励、身ヲ仏祖ノ道ニ委ネ窮達〈因窮と栄達〉操ヲ遷サズ、蚤ク台衡〈天台山の智者大師と衡山=中国五岳の一つで南岳のこと=の慧思大師〉ノ旨ヲ領シ特ニ円戒ヲ弘メ、博ク遮那ヲ学テ善ク其ノ淵〈深まり〉ヲ測ル、直指〈直接に究極の真理を指示すること〉ノ印ヲ佩テ頗ル省吾有リ、悉曇聲明ノ法ニ於テハ大ニ発明スル所有リ、四家〈華厳・法相・三論・天台の四宗〉ノ梵音集テ而大成ス。古ニ云ク祖風ヲ継ギ家聲〈一家の名誉〉ノ墜チザルハ師其ノ人ナル哉。)
とある。
敬光尊者が、この『山家正統学則』において台学の指針となる文献等は、その量夥しいものがあるが、今日では即手にすることが容易でないものもあるやに思われる。しかしそれらは基本的なものであり、必読すべきものとして出来得るものならば、目を通しておきたい。
敬光尊者は、五十六年の生涯において撰述したもの五十三部九十三巻にもおよび、その他校訂鑒定書籍はすこぶる多く、専ら三聖(傳教・慈覚・智澄)二師(安然・慈恵)の教学を講讃し、妙立・霊空等の一門がいわゆる中国の趙宋天台の学を祖述講伝し、四分兼学の律儀を唱道するのに対して、山家祖道の恢復の教風を宣揚し、ことにも、智詳大師・安然大徳に意を傾け、大いにその宗風を唱導したことは安楽律騒動≠フなかにおいてあまりにも有名である。
門下に多くの人材を養い、なかんづく、敬天・亮碵・良厳・仏猊は四上足と師の敬光尊者の業を扶くるにその功まことに大きく、これを復古四侍とした。また敬長・敬彦等の大徳はみな一代の学僧として師説を継承した。
敬光尊者の学問観というものは、非常にきびしく、『山家正統学則』のなかの「止観業」十一章において、〈学問〉というものを次のように述べている。
予世上ヲ見ニ多クハ学道ヲ逐ル人ヲミズ、是全ク学問ノ大切ナルコト認知セズ、其所益ヲ了別セズ、日ニ懈怠多ケレバナリ、又是解脱ニ赴ク根本ナルコトヲ覚知セザル故ニヤ、予以為学問ハ兎角食事学問ニスベシ、左スレバ、逐ゲザルコトナシト、食事セザル日無ガ多ク、書籍ヲ手ニセザル日無、是第一ノコトナリ、予ガ此語ニ頼テ策励スル者アランコトヲ希フノミ。
この意は、世に学問の道を逐げる人をみないが、それは学問の大切なることを了別し得ず、懈怠が多く、学問が解脱に赴くための根本であることを知らないがためであるとし、学問は兎角食事学問にすべきであるということである。
敬光尊者に学ぶ(五) 『山家正統学則』を中心として
敬光尊者は、『山家正統学則』の「止観業十一章」において、学道にすゝむ者に対する見方をきびしくし、いわゆる見解を述べているがそれは《学道を逐げざる者、学問の大切なること識知せず、日に懈怠多く、これ解脱におもむく根本なることを覚知しない故である》とし、さらには、自らの所信として《学問は兎角食事学問にすべきである》という提唱をなしている。
このことは、前回において記しておいたが、敬光尊者のかかる提唱は、学問を考究する者の実践的な生活態度をあらわしており、「食事学問」と称する表現は、おそらく管見するところ敬光尊者独自のものであろうと思考される。
これは、『山家正統学則』の冒頭に記せる、
学則ハ其大網ヲ云ニ、別ノ仔細ナシ、但一心ニ寸陰ヲ惜ミテ讀書スベキナリ、禮記ノ弟子職ニモ、朝益暮習、小心翼々、一此解不是学則日ト云ヘリ、陶侃分陰ノ誡、古人蛍窓雪案ノ勤、以テ自ラ励スベシ、
とある文言の主張につながるものといえる。
近年、この『山家正統学則』は、天台学者において高く評価されるようになってきている。その顕著なあらわれの一つに『止観の研究』等の著書で高名であった関口真大博士の編になるところの『天台教学の研究』の緒論のなかにもその重要さが述べられている。
かつて、「天台宗教学大会」の折、関口博士より「三井寺門には教学に蘊奥の深い人々が出ているが、これは如何なる学統によるものなるか」との質問を受けたことがある。これには、後日を期して研究を積みたい、とのみお答えをしておいたが、いまだにその研究にまとまったものを為し得ないでいることは汗顔の至りである。
敬光尊者が、この『山家正統学則』を著わしたそもそもの要因は、近世に至り、天台宗安楽派の興起により元禄六(一六九三)年、輪王寺宮公辨法親王令旨して、叡山内安楽院を改めて律城とし同七年霊空をしてこれを管住せしめた。これによって、霊空がいわゆる「安楽律」を唱えて以来律院となった。したがって霊空は、師であるところの妙立を奉じて律院の中興第一世となった。
天台宗叡山は織田信長によって焼失せしめられ、秀吉によって、山内の豪盛・全宗・詮舜等の力によって漸く復興の緒についたが、到底昔日の盛観までには至らず、また関東に東叡山が興ってからは、勢力の移行もあり、従来の情勢では講学修道のものも出でず、たまゝあるとすれば口伝法門の衰退し異論邪説であったという。
かかる時に妙立等が出て、大勢を一変するが如きであったも云われる。
妙立はもと禅宗の出であるが、寛文四(一六六四)年、坂本において大蔵経を閲して悔悟、戒を自誓自受し、四分(喰識にて、心・心所の認識作用の分限を相分・見分・自証分・証自証分の四に分ちたるもの)小戒によって、南山流の律僧となり、天台の学を究めたが、範とするところは、趙宋の四明智禮や明代の藕益であった。これらは天台の律僧なのでこれによって叡山天台を改革せんとしたのである。
妙立は、元禄三(一六九〇)年五十四歳で寂した。弟子に霊空・玄門があった。霊空は二十七歳で師の妙立に従い師立を弘通し、東叡山浄名院、日光山に興雲院を開いて安楽院の支院とした。霊空は元文四(一七三九)年八十八歳で寂。妙立のもう一人の弟子である玄門は、後に霊空を師とし安楽院第三世となって小栗律を主唱し、宝暦二(一七五二)年八十七歳で寂。
以上、妙立を祖とする安楽律とは、梵網経《詳しくは、梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十巻といい上下二巻からなる》に説かれる大乗戒のほかに小乗二五〇戒を兼持するもので、従来の戒律に対し新戒律ともいわれ、伝教大師の制定された一紀十二年間の篭山制度も復興し、その一紀満了者は必ず小乗戒を兼学すべしとするものである。
この制度をめぐって、管領の宮が変るごとに、変遷をくり返し騒動となった。この騒動は「安楽律騒動」と称せられる。安楽派妙立以下の主張は、伝教大師の大乗戒の宗風を破壊するものであるとの反論が出され、安楽派との宗義論争が激しさを増した。
伝教大師の祖風を顕揚せんと祖風を顕揚せんとする運動を「復古天台」とし、その運動者に真流(一七三〇〜一七七二)、三井寺法明院の性慶(一六六七〜一七三七)義瑞とも法明院の中興、それに敬光尊者とその弟子の敬天・良嚴・亮碩・佛猊・敬長等である。
ことにも敬光尊者は、上述してきたごとく深く天台、悉曇、密教にも通じ、常に復古の志を高くかかげ、宗祖智證大師、安然大徳に心を傾け、『北嶺教時要義』などの著によって五教五時の宗義を明かにし、大乗円頓戒を弘めて安楽律に反対四明の学を退け、真流の説に和し、講説著書すこぶる多く、三井に敬光ありと当時の仏教界にその名をとどろかし、まさに天台の中興とも仰がれた。
『顕道和上行業記』によれば、敬光尊者は「学問ノ之道ハ所期ヲ要ス焉期心不ン堅ハ必傾覆ニ至ント」(学問の道は所期は要す。期心堅らずんば必らず傾覆に至らんと)という。これは、学問の道は、心に目標をもたなければならない。期するところの心が堅くないと必らずくつがえるものである。ということを述べているものである。
安楽律派台頭に対して、伝教大師の祖風を復古顕揚のために、おそらく寧日のない活動をし、それと同時に講説、著作にと希代の業績をあげる敬光尊者にしては、その期心たるや人に倍して堅固なものがあったであろうと推される。
我々は、日常に学問という言葉を用いているが、この言葉もしくは日本語として用いられ、表現されたのは、すでに古い事柄である。それは奈良朝において見ることができる。すなわち推古天皇の十五年(六〇七)に建立せられた法隆寺は、正しくは聖徳太子によって『法隆寺学問所と命名されており、また元正天皇の養老四年(七二〇)に舎人親王が奉献せられた『日本書紀』の崇峻天皇元年三月の条に「善信尼等以百済国使恩率者信等付遺学問発」とあり、普通にはこれを《モノナラヒ》と訓ませている。このヤマト言葉が、《モノマナビ》ということになり、本居宣長が「学問」と書いて「モノマナビ」と振假名を施した。本居宣長はそう古い人ではない。マナビとは、「マナブ(学ぶ)の名詞形であり、「マナブ(真似ぶ)」即ち模倣することである。要するに「ニセル(似せる)」ことである。何故にこゝで「学ぶ」ことの語義を云々とするかというと、学問をするということは「ものごとのマネル」ことにその根元を見ることができる。「マネル」ということは言いかえるならば、「伝統にノットル」ことになる。
日本の天台宗は、三聖二師といわれる先徳の祖師大師等が、中国に学びその伝統をもち帰って、日本独自の天台宗を開いていったものである。それはただちに中国の四明智禮のみの天台宗ではないことを認識せねばならないと思う。
ここで再現して申し述べたいことは、宗祖智證大師の教風を学び、先徳たちが築きあげてきた三井の学問の土壤を、積極的に学びとることであろうと信ずる次第です。
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