法華懺法について
法華懺法について(一)
印度から中国に伝えられた仏教のおしえが中国の天台大師である智者大師智禅師 (五三八ー五九七)によって数多くの経典を整理され、釈迦本来の意思にもなかった特に勝れた教えは、実に「妙法蓮華経」であると、詳しく解かれてこゝに「天台宗」を開かれたのであります。それを更に嚢祖伝教大師(七六七ー八二二)が受けつがれ法華経のあらゆる統合された、高いおしえの中から禅、真言、戒、念仏を取入れて、比叡山に日本独特の天台宗の宗旨を開創されたのであります。そこで日本の天台宗で学ばねばならない難かしいお経は多方面に互って行法儀式即ち法要で追善回向などに行なわれる顕教と真言を中心とし僧侶の修行や祈祷など密教に依る行法とがあって、どちらも大切なものとなっているのであります。本宗の各寺院で執り行なわれている法華懺法について先徳識者の研究を参考にしながら解りにくい教学上の儀式作法は抜きにして至って通俗的な意義だけを数回に分けて申上げたいと存じます。天台大師が説かれた摩訶止観(十巻)の中で四種三昧という修行方法で三番目にある半行半座三昧に法華三昧という修行方法が説かれています。この行法は大師の師僧である南岳慧思禅師から受けつげられたもので、天台の直系で第七代目になる道邃和尚から伝授され比叡山門第三世慈覚大師(円仁)が現在執り行なわれている法華懺法という形式を完成されたのであります。
この儀式には全く仏教音楽といってよい声明で、琵琶、琴等のはいった雅楽の伴奏で、唱えられる荘厳華麗な儀式で、御懺法講といわれ御白河法皇ー保元二年ー以来宮中に於ける重要な法会であったのであります。
当時天皇法皇の御前で公卿、殿上人が参加して紫宸殿、清涼殿、仙洞御所などで盛んに行なわれ僧侶も俗人も一緒に執り行なわれていました。この儀式は法華経の第二十八品普賢菩薩勧発品と、それを補った普賢菩薩行法経によって定められた懺梅の行法であります。
懺悔の意義
この儀式は法華のおしえによって自らの罪とがを懺悔すると同時に広く世の中の一切の罪障を浄めて現世をそのまゝ極楽浄土に替えたいという修行によるもので全く懺悔の真の意味を理解することが肝要であります。
懺は、梵語の懺摩の略で、罪を悔い改める意味で罪を心に固く忍び、はっきり認めること。悔とは、漢語で過去の罪を悔い改める義で、同様の意味を梵漢重複した熟語であります。
遺教経(お釈迦様が最後に遺言されたお経)に「懺恥の服は諸の荘厳に於て最も第一となす」という言葉があるように、自分の過去に犯した罪を知って恥かしい心が生じたら、どんな装いよりも最も美しいということであります。仏教ではあらゆるものゝ本性は平等に仏性であるが、その仏性は善でもなく、悪でもなく清浄無垢なものであるのに本能的に罪を犯さずには生きてゆけないものであります。過去に積み重ねた罪を背負っている。これを業といゝ罪業深重にして振切れない前世の業とか或は宿業といわれているのであります。然し業には善業と悪業とがあって、悪業はどうしても取除かねばなりません。それには先ず懺悔を必要とせねばなりません。そして神仏の照覧を得て懺悔生活を続けるのが、宗教の第一条件となるのであります。
伝教大師は「愚が中の愚、狂の中の極狂、塵禿の有情といゝ、親鸞は自ら「愚禿」と称し日蓮は旃陀羅の子といゝキリストは罪の子と称し、強く自己反省をしているのであります。大集経には「百年の垢衣も一日洗いて鮮浄ならしむべきが如し百千劫の中に集むる所の諸々の不善の業も善く順いて思惟せば仏法の力を以ってのゆえに一日一時に尽く能く消滅すべし」といわれるように先ず懺悔の罪を自覚することであります。法華懺法はこうして懺悔の大乗的な精神を基盤に於いて進められるのであります。ですから経の前に唱える懺悔文を読むのも先ず懺悔することが仏道の第一条件になっているのであります。
伽陀
最初に伽陀を唱えられますが伽陀というのは梵語で頌と訳されています偈というのも同じ意味で大変優雅な音曲で始まりますが意味を申しますとこれから儀式を行うこの道場に十方にいます三宝をお招きいたし、あたかも帝釈天の宮殿を覆っている網の結び目に無数の宝玉がちらばっているが、その宝玉が互にその影を映し合うように汚れたこの身と浄らかな十万の三宝とが融け合って一体となることを願い、三宝のみ足を頭面に押し頂いて礼拝供養いたしますという風に唱うのであります。
三礼
十方というのは即ち東西南北と中間を指して八方になりますが、それに上下を加えて十方になります。つまり宇宙遍満の空間と不変常住即ち過去、現在、未来三世に互る時間の中にまします三宝に対し純真な心をもって至心に敬礼するのであります。
三宝(仏、法、僧)の意義
仏とはさとりを開かれた仏陀をいゝ、その仏陀が説かれたおしえを法といゝ、そのおしえを受けて修行している弟子達の集り即ち教団を僧という、これはお釈迦さまのご在世中の三宝であります、亡くなられて後はお釈迦さまの表徴する仏像、仏画を仏とし、そのお説きになったおしえを書綴った経巻を法といゝ、それを学びとっておしえの通りに修行している人々の集りを僧というようになりました。
更に何事も深く広く解釈する大乗仏教のおしえでは、お釈迦さまがさとりを開かれた刹那「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生は皆如来の智恵徳相を具有す、しかれども●倒妄相の故に知る能はず」とおしえられ「さとれるもの」「一切の真理を知り尽くした者」が仏であり、真理そのものを仏と観ずるものであります。そして真理の現れである世の中の姿や私どもの生活様相そのまゝが法であり、またそれを説いたお経を法というのであります。
その法にしたがって互に助け合って生活している人々の集りつまり正しい平和な社会が僧であります。
聖徳太子は平和な国土建設のため十七憲法を制定、その第三条に「篤く三宝を敬え」といわれています。
私共は常にいます常住の仏を仰ぎ、宇宙真理とが和合して実生活に実現する僧の立場を「一体三宝」又は「同体三宝」といゝ、要するにこれが「常住三宝」なのであります。
私共は常にいます常住の仏を仰ぎ、宇宙真理とが和合して実生活に実現する僧の立場を「一体三宝」又は「同体三宝」といゝ、要するにこれが「常住三宝」なのであります。
次に導師が供養文を唱えます。
こゝに集まる人々は皆跪ずいて香や花を型通り供養申上げ、願はくば、これによって十方の三宝に遍く行きわたり、この香華や薫りが仏の御座となって限りない世界に行きわたり仏事が成就されますように祈るものであります。『法華文句科解』という書物に身口意の三業供養のことが書いてあります。身業供養は身を以て三宝を礼拝するのであります。
法華懺法について(二)
一般には合掌して頭を下げて礼拝するのに九つの形式があると申されますが、その中で最敬礼になるのが五体投地といって全身を池に投げ出して礼拝するのであります。
ここでは導師が踞跪礼を行うので、右膝を座に着け、その足指を座に立て左膝を立て、左足で座を踏むのでへり下っておずゝ三宝を敬う形になります。口業供養とは口に諸仏三宝を唱え讃え、意業供養は心に三宝を想い恭敬するのであります。
供養とは供給資養といって、供とは下のものを上にすすめることをいい、卑しい物を以て尊い者を資けるを養というのであります。
「十住毘婆沙論」には法供養と財供養の二種が説かれてあって、仏のおしえを説いて人を導き仏道に入らしめるのを法供養といい、香華、衣服、飯食、家屋、金銭等の財物を三宝に施与するを財供養というのであります。また六根六種供養といって華、塗香、水、焼香、飯食、灯明を供養することが説かれています。この六種は菩薩の修行の基本となるもので、六波羅蜜を表しているのであります。
一、華(忍辱)=「●堤波羅密」慈の心を生せし瞋りの心を消滅させること。
二、塗香(持戒)=「尸羅波羅密」煩悩の垢を浄らかにする。
三、水(布施)=「壇波羅密」凡ゆる貧欲や苦を潤す。
四、焼香(精進)=「毘梨耶波羅密」遍く法界に及び薫じて怠らぬ。
五、飯食(禅定)=「禅那波羅密」この上もない甘露不生不死の味である。
六、灯明(智恵)=「般若波羅密」闇を破り明く照すことは無尽の意。
更に慈恩大師の「西方要決」に六根供養のことが説かれています。
- 華は仏の眼を供養
- 経を読み仏のみ名を称えることは耳の供養
- 香を薫ずるは鼻の供養
- 供物を供えるは口の供養
- 灯明をかかげるは身の供養
- 仏恩を思い心に敬いを生ずるは意の供養を説いてあります。
法則
次に導師が法則を唱えるのですが、今行はれる法要の趣旨を述べ、誠心を以て祈願いたします。仏菩薩、諸神祗神霊等これを受け、願うところを祈るのであります。
敬礼段
ここで仏菩薩を招き心から敬礼し、法華経を説かれた釈迦牟尼如来が法華経をお説きになっている会場に法華経のおしえが真実且つ最上のおしえであることを証明するためにお出ましになった。過去既にさとりを開かれた多宝如来と、宇宙に偏在している無数のお釈迦さまの分身、また十方に在す諸仏諸菩薩、舎利仏を始めとするお釈迦様の弟子達、法華経と大乗経典に対し誠心をもつて敬礼し、世間のためにも、身口意の三業の罪とがを除いて頂くよう一心にお祈りいたしますというところであります。これは三十三回に亘って雑念を振って一心に礼拝するのであります。
多宝如来と釈迦分身
法華経の中に説かれる多宝如来について申しますと、法華経第十一品に見宝塔品がありますがお釈迦様が、霊鷲山で法華経をお説きになっていましたが、有難い尊い説教の最高潮になった時、釈迦の面前が割れて、高さ三千里、間口、奥行二千里の宝塔が、突然湧出でてきて、空中に上りて止まったのです。
その塔には五千の欄干や部屋の数一千万もあり、金銀宝石や無数の旗で飾られて、壮大なまばゆいばかりの美麗な塔でありました。四天王を初め三十三天の天人、龍、夜叉、人間世界で見ることの出来ない異形の動物が幾千幾億とこれを取巻いて、花を撤き、香油を塗り、香をたき、金銀宝玉をつらねた飾を下げ旗をかざし、舞い、音楽を奏して礼拝、供養したのであります。
その時宝塔の中から大音音声があって「よい哉、よい哉、釈迦牟尼如来、自分を捨てきれなければわからない、仏を抱いていた最極の奥の手である妙法蓮華経をやっと、お説きになったが、その通りです」という叫び声が聞かれたのであります。そこに集って、釈迦の説教を聞いていた弟子達は、一様に驚き且つその壮大さに打たれ、思はず手を合せ、深く礼拝したのであります。
そしてそこに集っていた多くの人々の中に、大楽説菩薩という方がいられたが「お釈迦さまどういうわけでこのような壮大な、美しい塔が地面から湧き出て、その中からこの様な声が出て来たのでありませうか」と問われました。そこでお釈迦さまは「この立派な塔の中には仏さまが居られるので、ずっと昔ここから数え切れないほど遠い東の世界に、宝浄という国があり、そこに多宝如来という仏さまがいられてまだ菩薩として修行していたとき、自分が仏となった後十方世界のどこかで法華経を説く仏さまがあったら、自分は住んでいる塔の中から、それを聞くために、おしえを説いている仏さまの前に湧き出て、その説法が正しい最高のものであることを、人々にしらしめるため、「よい哉、よい哉」といってやろうと誓われ「今まさに実行されたのである」と説明されました。大楽説菩薩は更に「お釈迦さま私どもは、その多宝如来さまのお姿を拝ませていただきとうございます」といわれると「多宝如来は、自分の姿を見せてもらいたいというものがあったら法華経を説いていられる仏の分身が天地八方に出されて説教をしているがその分身を全部呼びもどして、みなが集り終った後に、はじめて自分の姿を現すであろう、と誓っているので、先ず幾千万億の私の分身をここに呼び集めなければならない」とお釈迦さまが申されました。大楽説菩薩は「私たちは、そのお釈迦さまの分身の方々にもお目にかかり拝み、ご供養申上げたいと存じます」とお願いいたしました。そこで釈迦は額の白い渦を巻いた毛を伸して、その毛から強い光「白豪」を出され、その光は十方の世界を照しましたので多くの仏達は「娑婆世界」でお釈迦さまが法華経を説いていられるが、多宝如来がお出ましになったから拝みに参ろうというので数え切れない程の仏達が、ぞくぞくと集って来られました。法華経にその光景が余りにすばらしく美しいので最高の言葉で表現されています。やがて多くの仏達が全部集まられ夫々座に着かれたので、みながお釈迦さまに塔の扉を開いて頂くようお願いたしました。そこでお釈迦様は空中に上がって塔の扉をお開きになりますと、多宝如来が塔の中の獅子の座という壇の上にじっと坐っていられるお姿を拝することが出来ました。その時多宝如来は再び「よい哉よい哉釈迦如来思う存分この法華経をお説きになったこのお経を聞きたいがために、ここに来たのである」といわれました。その時人々は「過去の仏さまからこんなお言葉を頂くことは未だ曾てないことだ」と驚き且つ有難く思って、沢山の美しい天に咲いた花を多宝如来と釈迦牟尼如来に散らして讃嘆しました。それから多宝如来は宝塔の中で釈迦牟尼如来に半座をわけて「どうぞお座り下さい」といわれたので、お釈迦さまは塔の中に這入り多宝如来と並んでその半座に着かれました。人々は仏様の神通力をもって、一同を空中までお引き上げ下さるようお願いしたので、皆を空中に引上げられました。これから有名な法華経の空中説法が行なわれるのであります。
法華懺法について(三)
多宝如来と釈迦分身(つづき)
この様な法華経見宝塔品第十一に説かれている光景は想像も出来ない幻想的なシーンになっていますが、印度の現地でお釈迦さまが遊説された北部に於ける千古の雪を頂く世界最高のヒマラヤの連山の峻烈な姿や遙かにガンジスの大河がゆうゆうと流れる雄大な自然に豁然として誰も気付くことのなかった大真理を聞見されたことは人間にとってあらゆる苦患を超越した仏のさとりを勝ち得た歓びに対し到底筆舌に表現出来なかった尊い場面であったことと存じます。
更にここで釈迦牟尼如来と多宝如来の関係について申上げたいのですが、これを省略して申上げると、法華経八巻の中で前四巻十四品を迹門といい、後の四巻十四品を本門といいます。そして現世に於て人々の眼前で真理を説かれたお釈迦さまを迹門の本尊とし、本門の説かれる宇宙の生命や真理である遠い過去からの本仏を多宝如来とし、この二仏が同座され、同心をもって説法されたのでありますから、本迹二門は一体であり、広く全宇宙即ち三千大千界を一貫して説かれた尊いものであることを意味されているのであります。 天台宗のおしえに一念三千という教理がありますが、これは難しい教理なので、簡単に申上げられません。私共の刹那の一心に宇宙の森羅万象(十界十如三世間)が具わっており、また同時に観ずることが出来るという意味であります。だから宇宙に遍満するお釈迦さまの分身を呼び集めることは、私どもの常識で考える招集ではなく、一念に集結することを意味して解釈せねばなりません。
今執り行はれている法華懺法の儀式のこの会場にも、多宝塔が出現しており、沢山なお釈迦さまの分身が集まっていられることを思念して厳粛な気持で、儀式が進められるのであります。
お招きした十方の諸仏、法華経を始めとする大乗の諸経典それに諸菩薩、舎利を始めとする弟子達と、ここで直接私どもの懺悔をお聞き下さる普賢菩薩に対して、誠心を以て敬い礼拝し自分は勿論世の中のために、身口意の三業の罪障をのぞいて下さるために三十三回に亘って雑念を捨て一心に礼拝するのであります。
普賢菩薩と普賢行
ここで礼拝する対象となる普賢菩薩が何回も繰り返しみ名を唱えられることは懺悔する場合それを聴いて導いて下さる仏さまが普賢菩薩であるからであります。
普とは遍くの意味で十方三世にわたって何時何処でもお出ましになり賢とは即ち妙善のことで最善の行についてお教え下さる仏であるからであります。
普賢菩薩は過去永い間修行されて、この娑婆世界で再び法華経を説いて頂くよう願われたのであります。だから法華経に説かれる本仏の化身であるから大日如来とも阿弥陀如来でもあるといわれています。
智度論に「若し説かんと欲せば応に一切世間の中に在りて住すべし」と何処にでも自由に居られ、多くの人々をお救い下さる仏さまであります。仏像としてどの菩薩よりも勝れているという意味で六本の牙(六道の意味)を持つ白象に乗っていられます。象は無欲で、刀や弓にも恐れず、自分の子象の行くままについて行く性質があって、自らの身命をなげ捨てて子を庇うという全く人々を救うために働いて下さる精神が現われているのであります。法華経第二十八品普賢勧発品に「人が若しも歩き、若しくは立ちどまり、この経を読誦するならば、われその時、六本の牙を持った白象に乗って、多くの菩薩方と共に、その処に至り、しかも自らこの身を現わして供養し、守護し、その身の安らかにしてやろう」と説かれているのであります。そして菩薩が修行中に十の大誓願を立てられたのであります。
一に十方三世の諸仏を礼拝しよう。
二に仏様方を讃えほめよう。
三に広く一切に供養しよう。
四に過去の罪とがを懺悔しよう。
五に一切の人々の福と諸仏の功徳を随喜しよう。
六に仏に法を説くことをお勧めしよう。
七に仏様方のこの世にお出ましになり常住して頂くようお頼みしよう。
八に常に仏にぬかづいて、勉学を励み、さとりを聞こう。
九に十万国土の人々に対して、大悲をもって利益を与えよう。
十に自ら積み重ねた功徳を仏の道にめぐらし人々の救済に向けよう。
以上の誓願はすべて仏菩薩に通ずることを表わしたものであるから、菩薩が発心して修行せられることを「普賢の海」に入ると、いわれています。また「懺悔の願主」でもあります。斯様に普賢菩薩はこの儀式には大切な仏さまであるから格別に菩薩のみ名を操り返し唱えることになっています。
私どもは、兎角三つの障といって貪り、瞋り愚痴の「煩悩障」と過去から積み重ねた業障と、過去の悪業の報いによって、善良な修行の障となっている「異熱障」とを除いて下さるよう、世間のすべての人々のためにも、自分のためにも、心から懺悔しようという意味なのであります。また仏教には、一般人間同志が親愛な情によって、互に尊敬し合う道徳を「普賢の行」といっているのであります。
六根段、六根清浄
われわれお互いが罪障を受入れる窓口には、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根であって、先ずその窓口を浄らかにしなければなりません。夫々身(根)口(境)意(識)の三業について三回に亘って懺悔しますから、都合十八回繰返すことになっています。然し、普賢観経によって身口意の三業の中、身業が元になるから第二も第三もまたこれと同じ意であると今は略されています。毎回懺悔する前に「誠心を以て私と一切の凡ゆる人々と共に」という言葉を繰返し唱えます。これは維摩居士が「衆生病めるを以て、是の故に我病む」というわけで大乗菩薩の精神から自分の六根の罪とがを懺悔すると同時に凡ゆる生命を持つものの罪とがを懺悔することになります。ここで申す根とは、人間の器官のことで、これには二つあります。
目に見える肉体的なものを「扶塵根」といい、その奥で働く視神経とか聴神経があって作用するので、この見えない器官を「勝義根」といいます。そしてこの六根の対象になるものに六境があります。即ち眼には色境、耳には声境、鼻には香境、舌には味境、身には触境、意には法境があります。そして眼でものを見た場合、あれは赤い色とか、丸い形だとか、四角だとかを識別することを眼識といいます。また声境から耳根を通して受けるのに美しい音、いやな音、騒がしい音等が感ぜられるのを耳識といい、鼻根を通して、よい香りとか、おいしそうな香りとか臭い匂いなど感ずるのを鼻識といい、舌根を通してまずい、おいしい、にがい、甘い等の感じを受けるのを舌識といい、また身に触れ快い、冷い、堅い、柔い等を感ずるを身識という。以上五官から受けたものを総合し、好きとか、嫌いとか色々の理智的批判をするのを意識というのであります。
前の五識は人間の外部にある境ー対象に接して受ける感覚作用ですが、意識は直接外部とは接しませんが、五官を通して外部から受けた識とそれを考え、思(想)うことによって、それに伴う動作を起す行と、これを何と判断識別していく識が集ったものが意識であります。
私どもは「おれが」こう思うとか「おれが」こうしなければということを主張して、「我」というものを絶待の存在のように考えていますが、実はこの「我」は受、想、行、識の集まったもので、我という固定した心の存在はなく積み重ねや寄せ集めに限ぎません。
従って肉体そのものも、仏教では「無我」を基本教義としているのでありますから、この基本的な迷いを改めるには、それを受入れる窓口である六根を一つゝ懺悔清浄にしなければなりません。
六根清浄とはこのことをいったのであります。次に懺法で唱える礼拝懺悔の言葉を申上げます。
眼=最初に私は一切の人々と共に眼根を懺悔いたします。遠い昔から積み重ねてきた眼の因縁によって色々の物に執着しています。貪りの心が盛んで、恩愛の奴となってさまよい歩いています。このため自己を傷害することが多く、十方の諸仏が到る処にいられるにも拘わらず、それを見ることが出来ません。今尊い大乗の経典を読誦し、普賢菩薩及び一切の諸仏に心から額づいて香をたき、花を散らして供養し、眼を覆うている一切のさわりを打ち除いて、何等かくしたてなく心から懺悔いたします。どうか諸仏、諸菩薩のお智恵の浄い水でこの汚れた眼をお洗い下さって、世の中の一切の人々ととも眼根の重い罪を最も清浄なものにして下さいますようお願いいたします。心から三宝を礼拝いたします。
耳=次に同じように下界からの美しい声を聞けば心は乱れ、悪い声を聞けば百八の煩悩を起し、その悪い耳によって悪事をすることになります。そしてその悪い声によって悪事は悪事を生み、際限なく広がって行きます。間違ってものを聞くために、とんでもない悪い道に踏み迷い、よこしまな見方をして、正しい道理やおしえを聞くことができませんでした。今ここに大乗の妙法に包まれて、心から普賢菩薩を始め一切の諸仏に懺悔いたします。
鼻=遠い昔から鼻根によっていろいろの匂い、男や女の臭い、食べものの香等に迷わされて参りました。そのため量り知れない罪業を重ねて参りました。十方の諸仏の功徳の妙香がそこら中に漂い充ちているのに、この濁れた鼻は、それを嗅ぐことができませんでした。今大乗のお経を誦んで普賢菩薩一切の仏に心から、この汚れた鼻を清らかにして下さいますよう懺悔いたします。
法華懺法について(四)
六根段、六根清浄(つづき)
舌=舌根によってもろもろのおいしいものを貪り掟を破って、放逸の限りを尽し、人々に迷惑をかけた量り知れない罪業を重ねてまいりました。また舌根によって、嘘、戯れの言葉で他人を迷はせ、他人を罵り、嘲り、二枚舌を用いて他人を不仲にさせたり何の益にもならない言葉を弄して喧嘩口論したり、仏の法を非難したりして、もろもろの悪い業を、舌根から出して、功徳の種を断ち切って来ました。舌根の罪とがは量り知れず、限りもないものでこのことによって苦しい悪道に堕り、何億年たっても、それから抜け切れないほどの罪を重ねております。諸仏の有難いおしえの法味が到る所に充ちているのに舌の罪とがによってそれを味うことが出来ないでいます。
今大乗の諸仏の深いおしえを頂いて普賢菩薩一切の仏や三宝に懺悔いたします。
身=遠い過去からの身根は、悪を続けて身に触れるものに執着して乗りました。即ち男女の柔かい、細やかさの感触にまどわされて、熾烈な煩悩の炎を燃し、殺人、盗み、乱婬等の悪業を続けてまいりました。それによって人々とともに互に怨み、争い、世に逆いて*−、掟を破り、寺や塔を焼いたり、三宝のものを略奪して羞じない、身根から生じたまことに量り知れない、限りない罪とがは言い尽せません。きっと来世は地獄に堕ち、猛火に焼かれ、永遠に苦しい責苦に会うことでしょう、十方の諸仏は常に浄い明るい光を放って、私どもを見守って下さるのに、わが身の罪が重くて、その慈光に浴することが出来ませんでした。今大乗真実のおしえを聴いて慚愧し、普賢菩薩一切の諸仏のみ前に額づいて、かくすことなく、罪とがを懺悔いたします。身根の重い罪とがを一切の人々とともに、清らかな身にして頂きたいことをお願いたします。
意=遠い過去から私の意は悪く、物ごとに因はれ誠に愚かな考を持っておりました。縁に従って貪り瞋り、ものの道理のわからない愚痴を起して、いろいろとそれによって悪業即ち十悪五逆といって、殺す、盗む、よこしまな婬(これを身業の三悪といいます)偽り、諂らい、悪口、二枚舌(これを口業の四悪といいます)貪り、瞋り、愚痴(これを意業の三悪といいます)の十悪に、父を殺し、母を殺し、仏の弟子を殺し、集団の和合を破り、仏の身を傷つける等の五逆を犯してまいりました、心はまた猿がちょこちょこと一ヶ所に止まらず、走り廻り六つの窓ー六根を指すーから絶え間なく首を出すように散乱して、苦しみを増し、迷いの世界で彷徨ております。こうした限りない善からぬ悪いことは皆意根から生じます。これは生死は勿論、もろもろの苦しみの源であり、遍く到る処に、仏がいられることや、あらゆる世の形相が仏のおしえであることを知らずに、間違った考えと、みだりにものごとを分け隔てして悩み苦しみを受け、さとりの中にあって、迷い続け、煩悩や苦難の解けた自由の中にあって、なおそれ等に縛り付けられていました。今初めて判り言いようのない愧を知り、怖しさを感じました。大乗のおしえに従って修行いたします。普賢菩薩一切の諸仏に懺悔し、その因縁によって、自分と凡ゆる世界の人々と共に意根から起る既に起った、今起りつつある、また未来起るであろう一切の悪業を清らかにして頂きたくお願いいたします。懺悔し終って三宝に心から礼拝いたします。このようにして六根を懺悔し、清浄にするのであります。
四 悔段
次に四悔の行法というのを引続き行います。四悔とは勧請、随喜、回向、発願であります。これも懺悔の方法でありますから、前の六根懺悔を加えて五悔ともいっております。
勧請=初めに勧請とは、求め祈ることで、心からこれまでにお出ましになった諸仏様願わくば久しく此処に在って法を説いて頂き、煩悩に汚れた人々が本来の清らかな姿に還り、みんなが仏と一体になりうるまでお留り下さいます様お願いするのであります。また自分の力だけでは世の人々を救うことはできないから、仏力にお縋りするよう願う意味も含まれています。
随喜=随喜とは諸仏の功徳を心からお喜び申上げると同時に、他人のなすどんな小さな善にも心から喜び誉めたいと三宝に誓うことであります。他人の善を随喜するということは、自分が善いことをしたときよりも、功徳が大きいとされています。善いことをする人は、自分というものがあります。他人の善を喜ぶのは自分を離れた心から善を喜ぶので、一切の善を普遍的なものにするからであります。
廻向=回向には色々の意味があります。因を廻らして果に向はせることと事柄ー事実ーを真理に向わせることと、自分を廻らして他人のために向わせることやまた読経し念仏して、その功徳を亡き人々に廻らして仏の道に向わせる等の意味があります。多くの善を廻らせてさとりに向わせることで、これは先ず最初の因を廻らせて果に向わせることになりますが、こうしたことは宗教生活には最も重要なことになります。ここでは身口意の三業によって行なわれた善を以て十方の数知れない多くの仏に供養し奉り、宇宙全体が永遠に、この福徳を廻らして、仏の道を求めようと誓い、そして回向し終って三宝を礼拝いたしますと唱えます。
廻向という言葉は、いつも使はれていて、法要を営むことをいいますが、本来の意味は、以上のようで志す仏に対する供養の功徳が一切に及ぼすことによって、始めて廻向の功徳が徹底し、供養の意義が成就するのであります。日常の勤行の終りには回向文といって、必ず「願わくば、この功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」と結んでおります。
発願=発願とは誓であります。しかしここでは誠心を以て臨終の時も心乱れず、正しい静かな心で安楽国に往生して、阿弥陀さまのみ前で、たくさんの菩薩方と一緒に修行に励み、苦しみのない楽しい果報を受えると共に一切のけものにも、この果報を受けさせたいとお願しそれには菩薩の誓願である数限りない衆生を救い、尽きないほどの煩悩を断ち切り、無量の法門を学び、この上ない仏道を成就しようという四つの願いを立て励みますと誓い、三宝を礼拝しますと唱えて四悔を終ります。
十方念仏
ここで花籠を持って立ち、行道といって歩くことについて色々の意味がありますが、仏を敬うために歩くのと、仏をお守りするためにその周囲を廻るのだといわれています。南無十方仏から初まって、三宝を念じ釈迦牟尼仏多宝如来、釈迦分身、妙法蓮華経、文殊師利菩薩、普賢菩薩と一々花びらを散らして節をつけて唱えると共に心に念ずるのであります。
南無の意味=念仏には必ず頭に「南無」という言葉が付けられています。これは梵語の「南謨」或は「那莫」を音の儘漢字に当て嵌めたので字には意味がないのであります。これを帰命、恭敬帰礼等と訳されています。前の一心頂礼または帰命頂礼と同じ意味で、南無と唱えた心がその儘自分の生活の力となって自己の生命を捧げて帰順することになるのであります。法華経の方便品に「一たび南無と称せば、皆すでに仏道を成ず」というようにその時には既に仏の徳を感得しているのであります。
経段=ここで歩き(行道)ながら法華経の安楽行品を読誦します。その有難い読経の声が世の中に満ち充ちて、三宝に供養すると共に、生とし生ける凡てのものが仏の境界に這入るよう勧め歩くわけであります。ところで法華経八巻二十八品をこの法要中に読み切ることは出来ません。法華経二十八品中第二の方便品と第十四の安楽行品、第十六の如来寿量品、第二十五の観世音菩薩普門品が四要品といって特に法華経の中心をなす重要な章となっています。中でもこの安楽行品は末世に法華経を弘めようとするものの心得を説いたもので最も大切な章であるといえます。従って安楽行とは身に危険がなく、心に憂いや悩みもなく、楽しく何事も進んで行なえるこというのであります。そしてここには四つの安楽行が説かれているのであります。即ち身安楽行、口安楽行、意安楽行、誓願安楽行であります。身安楽行とは身体を安らかにして周囲の繁雑や誘惑を避けて、静かな落付いた処で修行することであります。口安楽行とは他人を軽蔑したり他人の過去や欠点を非難しないで穏かな口調で話すことであります。意安楽行とは世が末になって仏の教えが追々薄れて来るとき、この法華経を保ち、大慈悲の心で慎しみ深く読み、説き争論をしなければ、心には悩みがなく志を同じくする同信の友達が得られることをいったのであります。誓願安楽行とは慈悲深い心を以て誓いを立てて、修行するのですが、そうすることによって色々の過ちから脱れ、人々は歓んでくれ、諸仏も守護して下さるということであります若し人々がこの四つの修行を怠らなかったらその功徳は何よりも勝れたものになり、心も身も安楽に平和に暮すことができ仏のおしえが段々と忘れられていく時代に法華の精神を強めることが出来ると説いてあります。しかし、この法華経に説かれている真理を得しそれを実際に踏み行うことはなかなか困難であるが、よく実践し得たなら立派であると讃えています。前の六根段を事の懺悔といって、具体的な懺悔であるならば、この安楽行品は理の懺悔といって実際的な懺悔の裏付けとなる理論的な懺悔であります。ここでは四安楽行中、身安楽行の部分だけ読誦することになっています。それは身が安らかでなければ口も意も安らかであり得ないところから先ず身を整えるというところから、身安楽行を以って代表としたのであります。お経が読み終ってから、また前のように花を散らしながら十方念仏を唱えます。
後唱=ここでは今まで歩いていたのが止まり、元の座に還ります。そして懺悔の儀式が終るに当って、その願いの主である普賢菩薩にお礼を申し上げることになります。即ち普賢菩薩は、一定の処に住んでいられず広く宇宙を住居とされていて、遍く一切の処にいられ、蓮の花が泥田にあって、その泥にまみれず巍然と美しい大輪の花を咲かせているように一点の曇りもない明鏡のように、心が澄んでおられる尊い方でありますから、この最も尊い方に誠心をもって礼拝いたしますという意味の讃辞を呈するのであります。
三礼=儀式の終りに臨んで再び三宝に礼拝します。唱える経文は最初のとは少し異っておりますが、ここでは一心に誠心を以て三宝を礼拝するばかりでなく、一々願をこめています。即ち「自ら仏に帰依し奉り願わくば一切の人々と共に仏のおしえを身を以て理解し、最高の仏の心を起こそう」「自ら法に帰依し奉り、願わくば人々と共に深くおしえを極めて、智恵が海のように広くありたい」「自ら僧に帰依し奉り、願わくば人々と共に心を一つにして一切の障りのないようにしたい」と祈るのであります。
七仏通戒偈
引続き過去の七仏といって、どの仏にも共通なまた誰にも当て嵌る仏教の本旨を、締めくくりとして唱えます。「悪という悪は為さず、善という善を励みて心の汚れを洗い浄めることは、これぞ諸仏のおしえである」という自分の心を浄めたい自覚こそ懺悔の出発点であり戒律を守る基であってお互い宗教生活の礎であります。この儀式に限らず仏教儀式には必ず唱えられる文句であります。
回向=いよいよ最後に回向文といって勤行や儀式の終りには必ず唱えるのであります。「願わくばこの功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と唱えます。ここではやはり難しい音曲で唱われるのであります。今まで積んできた善根功徳を愚かにせず、これを廻らして普く一切に及ぼし自也共々仏の道に進もうと願うもので、これが大乗のおしえの根幹をなすものであります。
むすび
以上「法華懺法」という法儀の順序に従って主要な点を極めて通俗に話して来たわけでありますが、要するにこの法義の中心をなすものは懺悔、随喜、勧請、廻向、発願、安楽行となっております。いづれの宗教でも、先ず宗教生活に入る前には、諸々の罪とがを懺悔することが第一段階であって、心身を清浄にし、素直な純真無垢な気持で三宝を敬い、その功徳を有難く頂き、心から仏のみ教えに対し随順することを誓い、自らその広大無辺の功力を身に対し、仏と一体となると共に、その功徳を廻らして一切に及ぼし、生けるものには福寿を、亡き人々には追善供養の資になるよう勤め、この世をこの儘極楽浄土にすることを願うのであります。
完
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