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星宮智光

修行のすすめ


修行のすすめ

仏教生活は、あえて分けると四つの部分から構成されている。まず第一に仏の三宝を篤く信仰すること、そして仏の教えを学ぶこと、これを基に実践修行すること、さらにこれら信教行の三によって仏の世界を悟ることの四である。これらの四つの部分は、人によってどれを強調するか、いろんな場合が見られるが、どの場合でも他の三をまったく捨てさるわけではない。一般に行を重視するといわれる天台の諸師のなかにも「信仰をもって本となす。」と主張する人びとは多い。浄土真宗の親鸞は他力信仰という独特の思想を展開し、唯信ということを仏教生活の基本としたが、その立場からやはり教行証の大切なあり方を述べている。

仏教生活において三宝に帰依信仰することは第一前提であるから、これを強調することはしすぎるということはない。天台止観の修行においても、第一段階の観心に失敗した場合にはすぐ自分の菩薩心すなわち三宝への帰依がしっかりしているか否かを反省し、それを確かめてから改めて観心をこころみよと教えている。信心は仏教生活の前提であり基本であるから、それが確立しないままに教義を学び修行してもその証果はおぼつかないことはいうまでもない。しかし、信心が清く篤ければ当然に教と行も深まる。それによってまた信心も堅固となり、仏の世界への証悟は確実なものとなる。そのような仕組みが仏教生活の本来なのである。

仏教は信心を前提としつつ、その教義を行者の心身をもって確証することに特徴がある。一般に、仏教は証悟の宗教とよばれているように、現実の日常生活における煩悩経験を土台とし、これを契機として心身を鍛練して悟りの境地にまで証入しようとする。そのためか仏教修行が重視され、その思想、技術、機構等とくに身体所作についての工夫探求が熱心になされ、精緻で多彩な修行体系の発達をみせてきた。

とりわけ身体的所作をとおして内心を鍛錬し、これを契機として全人格の根本的転換を果たそうとする手段的技術的側面に巧妙な工夫が施されている。しかも、その身体的所作については手段的な評価だけではなく、聖なる絶対的意味が加味されている。

仏教にはさまざまな修行の形態がみられる。禅観はその代表的なものであるが、他にも念仏とか護摩祈祷、山岳抖○、読経誦咒等がある。あるいは仏典の論議、声明、写経等も仏教修行としての働きをもつものである。問題はそこに仏教的意味と価値がこめられており、悟りをめざすものであるか否かである。修験的山岳科と登山家たちの山歩きでは外見の行儀作法は多く共通類似していても、本質的に異なる点は、前者には明確に仏教的絶対価値と意味がこめられ、行者はそれによってあくまでも悟りをめざそうとしているところにある。

ところで、古来から仏教非難の一つに、堂塔伽藍のみが荘厳で経典のみ山のように残っているが、行証はすっかり廃亡しているということがよく語られてきた。もしこれが事実であり、あるいは実態に近いとするならば、仏教は生きていないということになる。行証すなわち修行とそれによる証悟があってこそ、仏教は本来の役割を発揮するものだからである。

現代は世俗化が進み、宗教的生きかたや価値観は通用しがたくなっている。しかし、他方では現代の文明が深刻な矛盾と困難をはらみ、破局的な様相さえみせはじめているのも事実である。こうした現代文明の諸問題にたいして根本的な反省をうながし、再生の方向をうながすのは超文明的立場に立つ宗教の役割でなければならない。もし仏教がこの現代文明に根本的反省を求め人類宇宙の創造的進化の方向を示そうとするならば、まず行証の確立による二十一世紀的智慧を構築すべきであろう。

天台法門では、すぐれた行者を数多く輩出し、さまざまな修行の仕方が豊富に蓄積されている。天台智は、坐(すわる)と行(あるく)という身体行儀を基本としてあらゆる仏教修行を四つの型に分類し、常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧の四種三昧として説明した。このうち常坐(坐禅)がもっとも効果が上がりやすいとしたが、非非行非坐すなわち日常の行住坐伏、資生産業のままでも止観の三昧修行は可能であると強調している。主旨は行者の能力と環境にあわせてもっとも最勝の条件を選んで修行せよという。それでは止観の修行の内容と目的は何かという「心は不可得」ということ、すなわち私たちの自覚意識はすべて不確実であるから自我への執着を捨てるということである。

 

禅観、念仏、護摩祈祷、山岳抖○、読経誦咒等だけでなく、日常の農耕工作、芸術製作あるいは病床療養のなかにあっても、つねに「心は不可得」ということを念頭に思い、それを体験するように心がけることが、実は深い修行である。もし恵まれて本格的な坐禅や祈祷抖○が可能ならば更に良し。あるいは期日をきめて、ひたすらに念仏や写経、読経等に精進するのも良い。

修行は形態もさまざま、その激しさ深さもいろいろあるが、本質的にはそこで仏法を体現することであり、それを実行することである。一日坐禅することも、七日を一期に山岳を抖○することも、病床のなかで念仏に明けくれることも、生涯を僧堂で修行することもあるいは農耕工作等に励むのも、仏法を体現するというねらいさえ決定しておれば、それは修行であり、やがて深い聖なる仏法を体現し、自我愛から開放されるであろう。

三宝への帰依信心を堅固にし、自分の境遇に合致した修行にはげみ、そこで体得された聖なる仏法体験を力として、現代文明を乗り越えること、それが今、仏教徒に求められていると思う。仏教生活における修行の活性化を強調したい所以でである。

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